司会

 それでは、これから、記念講演に移りたいと思います。講師は村井康彦京都市美術館館長にお願い致しております。
 御承知のように村井先生は、京都大学大学院を修了され、京都女子大学教授、国際日本文化研究センター教授、更には京都市歴史資料館長などを歴任されました。主な著作に『茶の文化史』『千利休』『平安京と京都』などがあり、茶道を中心としながらも日本文化全般に対する造詣が深い、日本を代表する歴史家のお一人であります。
 村井先生は、京都創生百人委員会の世話人にも御就任されております。
 テーマは「京都創生に向けて」。
 それでは、村井先生よろしくお願いします。

記念講演:京都市美術館長 村井康彦

 大きなテーマでございますけれども、今日は30分という限られた時間でありますので、2つの点についてお話ししたいと思います。1つは遷都、都を移る遷都は天下草創の事業であったことということについて、2つは、京都文化の特徴である文化の集積と複合をめぐって、この2つの事柄にかかわることをお話ししてみたいと思います。

[1]平安遷都は天下草創であったこと

 京都の歴史にはいくつかの画期がありますが、平安京がつくられたということ自体が一番大きな画期です。もっとも、京都の母胎となった平安京がつくられるに当たっては、その10年前に行われた長岡京遷都のことを忘れてはなりません。桓武天皇によって長岡京、それから平安京がつくられるわけですが、遷都の思想という点では実は長岡京遷都にこそ込められていたからです。

 長岡京遷都は784年、その中心人物は藤原種継という者でありましたけれど、しかし長岡遷都、それはまた都づくり、造都でもあったわけですが、その造都が2年目に入り、これから本格的に展開するという矢先に反対派に殺されてしまう。夕方だったのでしょう、松明の明かりをつけて工事現場を視察中、2本の矢が飛んできた。即死ではありませんでしたが、翌日自宅で亡くなったと言われています。その間の事情とかいきさつについてはここでは省略させていただきます。桓武天皇は平城京で即位した最後の天皇ですが、その桓武天皇によって長岡京に都をつくるということの目的は、ごく簡単に申せば、平城京が、天武系皇統の都であったのに対して、天智系の皇統の都としてつくられたものであったこと、それからこれはもうよく言われていることでありますけれど、強大になった寺院勢力の抑制というものであります。ただし、桓武天皇は仏教あるいは寺院を否定していたわけではありません。大河川に接した都をつくろうとしたことも理由としてあげられると思います。淀川水系の都と言っていいと思います。このように1つの目的というよりはいろんな複合した目的、意図を込めて長岡遷都、長岡造都は行われたと思います。

 1つだけつけ加えて申し上げるならば、最近の言葉で言えば平城京の環境汚染の問題があったと思います。奈良時代の末ですが、孝謙女帝がもう一度即位して称徳女帝になったということは御承知のとおりだと思いますが、その称徳女帝を呪うために佐保川でどくろを見つけ出して、これを称徳女帝に見立てて呪詛しようとした、そのときのことを書いた『続日本紀』の記事に「汚き佐保川」というふうな表現があるんです。大和盆地には大きな川がありません。都の中を佐保川がよぎっているわけですが、小さな川でしかない。当時としては、都市の廃棄物などを処理するのは川に流す以外にはたぶんなかったろうと思うんですが、小さな佐保川は70年を超える年数の中で文字どおり汚き川になってしまっていた。大きな川、大河川に接するということが大きな都であるためには必須不可欠の条件であったのだろうと思います。

 そういうことが考えられるわけでありますけれども、今申し上げたいのは、実はそういうことではなくてというか、それに加えてというか、遷都というもの、遷都そのものの持つ意味です。当時の人は遷都にどういう思いを込めてそれを行ったのかということです。長岡京遷都の年、784年という年は、干支で申しますと甲子の年でありました。甲子革令、中国の思想によれば、革命の「革」に命令の「令」と書いて革令の年とされていた。そのことにことさらこだわりますのはほかでもありません、それから10年後、結局長岡京を捨てて平安京へ移るというときに選ばれたのは辛酉のときでした。辛酉は辛酉革命と言われますように、革令の年と同様に世の中が変革する、大きく変わる、世の中が変わる、そういう節目の年であると考えられていたわけです。つまり桓武天皇やその周辺にあって遷都を行い都づくりを推進しようとした人たちは、新しい都をつくるということは天下を変えることであると考えており、事実『続日本紀』には公私草創の事業であるというふうな言い方をしています。公私草創と は、すべてのことを新しくつくり出す天下草創の事業であるということです。

 その意味で、平安京は長岡京のバリエーションというか、バージョンというか、そういう意味づけができるかもしれないんですが、しかし、長岡京に込められた意図は平安京がつくられたことによって成就した、でき上がったと言っていいと思います。つまり桓武天皇の事業は長岡京、これは途中で結局放棄しましたけれど、そして平安京、平安造都によって完結したと言っていいのです。

 そして、それを別の言い方をすれば、山城宮都がつくられたということだと思います。長い間日本の宮都の歴史の中では大和がつねに中心でした。時折外へ出るということはありましたが、基本的には大和にあった。その長らく続いた大和の宮都を否定して山城の国に都をつくったということがこの2つの宮都に込められた根本的な意図であったと思います。

 そして、大和から山城へ移ったことによって、ある意味ではそれまでの歴史、社会的、政治的な関係が断ち切られて、新たなものがこの山城の地、最終的にはこの京都盆地においてつくられるようになったということです。実際的な面で申せば、桓武天皇の時代にはまだ平城京的なものを引きずっており、平安京的なものが本格的に展開するのは次の次の天皇、嵯峨天皇の時代であると言っていいと思いますが、その意味では遷都における連続と非連続というふうな関係が指摘できると思います。

 遷都と申せば、京都が体験したもう1つの大きな事件は、明治2年の、西暦1869年の東京遷都であります。これが古代であれば京都はまず廃絶して廃虚になった。古代の遷都、度々日本で行われた遷都においては、それまでの旧都は大体廃絶して田園に帰しております。京都が廃絶しなかったのは、やはり長い年月の間を経て、江戸時代では40万を超える大都市になっていた。100万都市の大江戸、それから40から50万の大坂、それについで第3の都市になっていた京都がそれだけの都市基盤を築いていたということが、遷都によっても廃絶しなかった一番の理由であります。しかし実際には東京遷都によって京都の人口は激減しています。その京都を何とか活性化したいということで京都の近代化が様々な形で推進、展開されたことは御承知のとおりであります。ただし、当時は近代化というのは限りなく善であった。近代化によって環境が破壊されるとかはほとんど考えられなかった。それに対して今日では、いたずらなる近代化は環境破壊などを引き起こすという認識ができてきているというか、自覚が生まれてきており、こんにちの時点で京都の活性化を考える場合、そのあたりのことを十分認識して進めていく必要があります。先ほどの御提言なんかにもそういうことが盛り込まれているように思います。

[2]京都文化にみる集積と複合について

 話を先に進めたいと思います。2番目の文化の集積と複合ということについてです。京都で皆さんも何度か聞かれたことがおありだと思いますけれども、古いお寺なんかを訪ねたら、私のところはこの前の戦争で建物は焼け、記録文書も焼けてありませんなどと言われた。そこで、はてこの前の戦争とはと思ってお尋ねしたら、応仁の乱ですと言われた。さすがに京都であると感心する人がいるわけですが、確かに応仁の乱によって京都は焼け野原になったということは日本歴史の本を読めばどの本にも書かれている。常識になっている認識だと思います。なかんずくこの乱のことを書いた『応仁記』という軍記物の中に飯尾彦六左右衛門尉というものが、戦が行われた後の京都の景観を眺めながら詠んだ歌、申し上げればああそうだとお思いでしょう、「汝やしる都は野辺の夕雲雀あがるを見ても落るなみだは」とうたった。こういう歌に象徴されますように、応仁・文明の乱で京都は焼け野原になってしまったという理解が定着している。ところが最近の研究では、どうやらそうではなかったのではないか、焼けたのは主として上京地区である、と。武士たちは上京地区に集住していたわけですね。そして東軍細川勝元が室町幕府とその中の主、足利義政を抱えていた。それから西の方に1キロも離れていません。700〜800メートルのところに山名宗全が陣地を構えていた。これが西陣、西軍の陣地であり、乱後、高級絹織物の織り手たちが住み着いて始まったのがいわゆる西陣織であることはよく知られているところです。合戦はその間で専ら行われたのであって、下京地区を、今日で言えば中京、下京といった地域、そこは主として庶民がたくさん住んでいたところですけれども、その地区は余り焼かれていないのではないかというのが文献の上でもいわれ、また発掘調査でも、焼けた土、焦土層が余り出てこないということが報告されております。東軍と西軍が戦うのにわざわざ下京地区まで、民間のあるところまで出かけて戦うということはなかったし、むしろ避けられていたのではないだろうかと思います。そういう点で応仁の乱については認識を改める必要がありそうです。

 ただし、上京地区と、もう1つ特徴的なことは、東山、北山なんかの山麓部にあった寺社なんかはかなり焼けている。京都は御承知のように山が周囲を取り囲んでいて、単純化した図式的な言い方をすれば、アルファベットのUを逆にした形の山が三方を取り囲み、南が開けている。そしてその真ん中に平安京、あるいは京都の街がつくられている。その山麓部に結構たくさんの文化財というか、寺社がつくられていた。山と里との中間のいわゆる里山です。京都文化はある意味では里山文化という要素を持っていたと言っていいと思うんですが、その部分はかなり焼かれているということも明らかになっています。

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