吉澤

 杉浦さんありがとうございました。文字どおり超特急でお話しいただいて、心臓に悪かったんじゃないかなと思います。申しわけありません。

 続きまして今度は下鴨神社の新木宮司さんにお願いしたいと思います。下鴨神社は国の名勝でありますと同時に世界歴史遺産でもありまして、かつて10数年前ですか、森が非常に危機に瀕したときがありました。糺ノ森を復興して、今のような非常に立派な森に育て上げた立役者でもあります。
 それでは、新木さん、お願い致します。

新木

 京都が都としてちょうど1200年になりますが、都ができます以前は京都というこの地方は森と湖であったと言われております。都ができましてからも、その都たるや古代中国の都を模したとは言われておりまして、いろんなイラストが今日書かれておりますが、私はそれはそのとおりだろうと思いますけれども、やはり森と湖の中にある都であったのではないかと思っております。現在でも東の方には御覧のとおり鴨川がありますし、西の方には嵐山の川がありますし、かつては真ん中に堀川という川がありました。それらの支流が縦横無尽に都の中に流れていたことは確かであっただろうと思います。

 下鴨神社は糺ノ森と申しますけれども、歴史的に見ますと京都は森という地名が残っておりますものがかなりございます。北の方から下の南の方まで大きな森があった事実がそうしたことで分かろうかと思います。糺ノ森自体を見ましても、都ができましてからですが、平安時代の初めの記録には約150万坪ぐらいの大きな森であったということがわかります。その中に人々が暮らしてもいたわけですから、今日で申します都市機能としての緑の景観は十分保たれていたのだろうと思います。しかし都ですから、どんどん人口が増えて参ります。かつて洛中にお寺さんだとか神社なんかはできなくて、ほとんどが洛外にございました。その周辺に人々が住むようになったので、郊外も非常に人口過剰になりまして、森とか川なんかも造り変えられるような事態になったのではないかと思います。

 そしてもう一つの大きな原因は、都には乱がございます。御存じの建武の乱、それがようやく200年ほど掛かって落ち着いたと思えば、今度は応仁・文明の乱、戦国時代、更には天保の乱、明治維新のときには蛤御門の変とございましたとおり、乱によってどんどんそういう自然がなくなっていく中で、唯一保たれておりますのが糺ノ森でございます。これも神さんがお鎮まりになる森やからというて人々に大変大事に守っていただいた。これは都の人、今日で言えば市民との大きなかかわりではないかと思います。そして特に明治維新以降は田んぼや畑がどんどんなくなって参りました。下鴨神社の界隈もどんどん都市化されていますので、その水の流れというのがだんだん必要ではなくなった。人々の生活では下水道も水道も都市機能の一つとして管理されて参ります。そういうことで、森や水も少しずつ失われていくようになりましたが、ちょうど今糺ノ森は7〜8割が落葉樹で構成されておりますので、葉っぱが盛んに落ちる時期ですが、ちょうどケヤキとかムクとかエノキとかそういう葉っぱ類が黄色味を帯びてまして、今月の中ごろ過ぎには森全体が真っ黄色になります。それが終わりますと紅葉が始まって真っ赤になります。洛外のかつての紅葉の名所、高雄などが全部散り終わったころに糺ノ森が始まる。これは今に始まったことではございませんで、平安時代の歌なんかによく出て参りますとおり、それはやっぱり高野川と鴨川の三角州であるということで、気象的な条件も保たれている結果ではないかとは思いますけれども、そういうふうに森が四季に移ろう、冬になると木に積もる雪、それから春になると花芽が咲いて、そして新緑というふうに、1年が森の移り変わりで人々の生活の潤いが保たれている。そういうような精神生活がもとになって、芸術とかあるいは文化とかがだんだんと育ってきたのではないかと思います。

 そしてもう一つは、これは先ほど町家のこともお話しになりましたように、下鴨神社は今糺ノ森の一部分を発掘しております。それで分かってきたことなんですが、古代は御存じのとおり社殿というのは神社になくて、森自体が神さんのお住まい、あるいは山とか岩とか、これは神名備、岩倉というふうに言われておりますように、今日のように社殿がなかったわけです。その社殿ができ始めたのが西暦で言いますと500年代の後半でございます。発掘の結果それも裏づけられました。社殿ができて20年たちますと、それを建て替えるという式年遷宮という制度が始まりました。これは建築の技術を残すとか、お父さんが建てられた建物をまたその息子さんなりお孫さんが修理をしたり建て替える。社殿があればそれでよいというわけではございません。やっぱりその中の調度とか、いろんなものがかかわってくる。そういう技術を後世に残してきたというのもやはり森林の大きな力ではなかったかと思っております。それもやはり伝統を継ぐ大きな神社という、お寺さんの場合も同様でございますが、そういう祭祀やとか仏さんの供養とか、そういった伝統の行事を継ぐことによって文化も守られてきたのではないかと感じます。

吉澤

 新木さんありがとうございます。私どもはいらちでして、東京人でパッパパッパしゃべるんですが、新木さんのゆっくりしたお話しぶりを聞いていると、悠久の1200年の時の流れの中にいる京都の方だなという気がつくづく致します。

 そうしましたら最後になりますが、平成14年でしたか、京都経済同友会が京都の都市再生推進に向けての緊急提言というのをした時の座長でございました。京都創生懇談会のメンバーでもいらっしゃいます上村さんにお願い致します。

上村

 上村でございます。きょうは男性3人が日本の伝統的な服装であります、お着物でいらっしゃっておられますのに、私だけが洋服でどうも居心地が悪いところがあるんですけれども、お許しをいただきたいと思います。着物というのは本当に着るのに手間暇かかりますよね。今日は決して手間暇を省いたわけではないんですけれども、先ほどからお話ありますように、やはり日本のものというのは本当に丁寧にいつくしんで守って伝えていかないとなかなか伝わっていきにくいものだなとつくづく思っております。

 2002年、平成14年に京都経済同友会から緊急提言をさせていただきました。この緊急提言をきっかけに京都創生フォーラムという形になりまして、ここにこういう形で今日、大勢の方々が集うような会へと発展しましたこと、本当に感無量に先ほどから感動しております。「国家戦略としての京都」というこの言葉も本当に一人立ちしまして、そういう意味では喜んでおります。この「国家戦略としての京都」とあえてネーミングを致しました者として、その言葉に秘めた私の思いと、それからこれに至った経緯と、そしてこの創生フォーラムを受けて私がつくりました「うるわしのまち・みちづくりNPO」、私はそこの理事長もやっておりますんですけれども、そういうことを短い時間ですけれども、お話をしたいと思います。

 まず国家戦略ということですが、今、日本の国家としての戦略はどうあるべきなのか、その国家戦略の手段というか、道具というか、京都というのは国家戦略の最大の切り札であると思っております。もっと京都というものを国家戦略に役立てて有効に使ってほしいというその願いが込められたネーミングです。今、日本の国家戦略はどうあるべきかということですが、品格ある文化国家を目指すべきだというふうに考えます。グローバル時代の中で、やはり市場経済、経済一本、特に利回るとか利回らないとか、そういう非常にお金を中心とした経済至上主義の中に我々は巻き込まれているわけですけれども、それを決して否定するわけではありませんが、それを抑制しながら品格のある国家を目指すべきです。では品格のある国家を成り立たせる日本のバックボーンは何かというと、先ほど片山さんから能のお話もありましたが、やっぱり時間と辛抱と手間をかけながら、いつくしんで1人の能楽師を育てていくとか、あるいは下鴨神社の四季の折々の変化をずっと愛でる気持ちだとか、また祇園町がずっと伝えてきて我々に教えてくれるものとか、そういう中で我々は日本人としての相互扶助とか優しさとか情感とか、そういったものをずっと育んできていると思うんです。そういう日本のよき伝統や文化や宗教性やそれらを生み育ててきたのが京都でございます。この京都というのをもっともっと日本が世界に打って出る21世紀の文化国家ビジョンの中に、中枢にきちっと位置づけて、そして有効に活用してほしい。今、日本、日本というふうにあまり日本固有のと言いたてることはかえってマイナスで靖国問題とかいろんな問題もあります。それよりも京都というのが一つのキーワードとして、京都という言葉に込められたメッセージを世界に、京都という中に日本人の持つ本当に良いところ、日本の文化の本当に良きものを込めて、そしてそれを京都人だけじゃなくて、日本人が世界に向かって発信していくときのツールというか、手段として、そういう思いでの「日本の国家戦略としての京都」です。京都の戦略じゃないのです。国家の戦略の中にもっともっと位置づけてほしい、そういう願いを込めたわけでございます。

 それで、少しきっかけになりましたのは、これは2002年なんですけれども、小泉改革の中で都市再生特別措置法というのができまして、特に東京を中心に都市の構造改革をやろうと。今見えております六本木ヒルズとか汐留とか丸の内の開発とか、ああいうものをもっともっとやりやすく、今は完成してすばらしいビル群ができているわけですけれども、あれをやるためには色んな建築に纏わります規制を払わなくてはいけなかった。それをするためにも都市再生特別措置法というのを緊急で作りました。それを私が政府の委員をやっていますときに知り、これは大きな都市だけを対象にするのはおかしいのではないか、もっと都市再生を通じた、いわゆる歴史都市の再生ということもこの中に含まなければおかしい、そういうふうに感じました。そこで京都市のほうにも色んな提言を致しました。ただ、第1次の整備の指定には京都は入りませんでした。なぜならやはり京都はずっと開発と保存の中で揺れ動き、開発しようとすると保存派の方が出てこられまして、開発に対するアレルギーというのが強いということでなかなか新しい都市再生法に手を挙げられなかったわけです。しかし私は、この開発と保存というその相矛盾するものを克服する必要があると考えまして、そこでこの都市再生特別措置法の中に歴史都市の再生・創生を盛り込む、この緊急提言を致しました。
 京都というのは京都市民、京都だけのものではなくて、国民的な共有財産である。ですから、その活用と保全というのは国家的な課題として位置付けてるべきということ、それから歴史都市は単に文化遺跡として保存するということだけではなくて、現在、生活の場であり、産業という営みの場であるということ、その中で再生をしながら、そして都市間競争にも打ち勝っていく。だから京都の個性や多様性を伸ばすためには、画一的な全国一律のそういった規制からは外していただきたい、京都独自の一つの基準というものをつくるということを国に対して認めてほしいと、そういった提言をまず京都市から国に上げていただかなくてはできませんので、致しました。その結果、国の方からもその年に歴史都市再生に対し、5,000万円ぐらいの調査費がつきまして、そして結果としてキリンビールの工場跡地ですとか、JR京都駅の南口、それから油小路通、それからJRの長岡京駅が特別措置法を受けていろんな優遇措置を受けることになりました。
 これを受けまして、私は京都が美しい町を保っていくために、電線があるというのは目障りで、電線がなくなったらこんなに綺麗になるのにという思いで、本当に素朴な思いで「うるわしのまち・みちづくりNPO」をつくりました。地中化の仕組みというものを私自身も知らないで、とにかくつくろうということで走っていますが、始めますと色々と難しい問題がございます。まず美しい町にするためには電線の地中化、景観を保つのが第一歩なんですけど、我々はまず地中化というのがどういう仕組みでできるのか、この仕組みを学ばなければならなかったのです。本当に国も、そして京都市、地方自治体も、そしてNTTさんや関西電力さんや、そこの中の住民の方や、色んな方の協力がなければ全くできません。先ほどの杉浦さんのように町内をまとめていただくリーダーや住民の理解、これが一番大事なことだと思います。お金のことはまだなんとか工夫したり知恵を出し合ったりしたら何とかできます。しかし、いざ自分の家の前が工事になるとなりますと、トランスをどこへ置くだとか、工事の期間中どういうふうに営業していらっしゃるのに過ごすのだとか、いろんなことが一杯出て参ります。大体1mを地中化するのに、やり方にもよるんですけど、約60万円と言われております。

 最後に、私は本当に京都というのは、京都に降り立った途端に世界に冠たる、匂い立つような麗しい永遠の都、華やぎのある都にしたいと思いますので、皆様とともに力を合わせて一緒につくっていきたいと思います。うるわしのまち・みちづくりNPOも含め、これからもどうぞよろしくお願い致します。

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