講演:京都国立博物館館長 佐々木 丞平

テーマ:「悠久の日本美を京都から世界へ」(1/2)

佐々木氏  ただ今御紹介いただきました佐々木です。これから20〜30分時間をいただきまして、お話をさせていただきたいと思います。

 私が勤務しております京都国立博物館はここの京都の地に創立され、今年でちょうど110周年を迎えました。全国に国立博物館は4つありますが、その中で京都に存在していることの意味と意義、これを常に感じております。周りの環境を見ますと、創立840年を超える三十三間堂が向かいにございます。東の妙法院、これは現在の場所に移転されてから既に400年。あるいはその隣、南側にございます智積院、それから北には方広寺がございますが、いずれも400年以上の歴史を持った古刹です。京都国立博物館はそのものが歴史的文化財の山に囲まれた中にあります。

 御承知のように794年に平安遷都、都が創設されてから今年で1212年目に当たります。世界の中でもこれだけの長い歴史を持った都市は数少ないかと思います。京都は、幕末まで常に天皇を戴く帝都としての格の高さと文化の反映を保持していました。江戸時代には京都の有名な商店は「江戸店(えどだな)」と言われる支店を関東に置いて今でいうブランド品としての人気を集めていました。

 宮廷文化、公家文化のたおやかさ、雅さはまさに京都のみに存在したものと言えるでしょうし、金閣を中心にして華やかな公家文化と武家文化の合体した義満の北山文化の栄えた時代、あるいは銀閣を中心にして枯淡な精神性の高い義政の東山文化の栄えた時代等、京都の文化は日本文化そのものを象徴するものでした。また、政治の中心としても栄えた時代があり、当時の地名が室町など今もそういう名前が残っているのであります文化の発信地であり続けました京都は琵琶湖から疏水をひく大規模な工事を行ったり、路面電車をいち早く取り入れるなど新しいことに対しても積極的であったと言えます。

 1200年もの長い間、都として継承するということは、その長い時代の流れの中で当然良い時代も悪い時代もあったと思います。応仁の乱など戦乱の炎に都が焼き尽くされた時。あるいは文政の大地震。世界大戦の砲火こそ浴びなかったものの、何度も危機的な状況を京都は乗り越えてきております。歴史が長いということは、そこに内包された様々なものがあるということでもあります。

 こうして時代が繰り返されて伝統が生まれるわけです。伝統は多くの良きことを将来に向けて継承していった結果、構築されるものですが、その過程では何度もの革新的な変化を生み出しております。私の専門とする美術史の分野では、京都で生まれた御用絵師の流派、狩野派という流派がありますが、狩野派は幕末まで400年の長きにわたって継承されましたが狩野派としての伝統描法が厳然としてある一方で、その時代、その時代で明確な変化も遂げております。狩野派の開祖・正信は中国の画法を正しく修得し、その漢画法の雰囲気を色濃く残した表現描写を見せていますが、その息子であります元信は父の画法を変化させ、軽やかで乾いた筆使いを見せております。また、その孫にあたる永徳は元信の画面構成をさらに大きくし、大和絵の描法も取り込んだ勇壮な画面を創り上げています。京都国立博物館では来春、新春の1月6日から京都御所の障壁画展を開催致しますが、そこで展示される幕末の狩野派の頭領、狩野永岳になると近代的な三次元性を持った風景を展開させる一方、金雲あるいは金砂子を用いて復古的な雰囲気をかもし出しています。京狩野9代の永岳まで狩野派は実に350年の年月の間、それぞれの絵師が個性を発揮しながら新しい絵を生み出し続け、しかしながらここに至るまで明確に「狩野派である」と感じさせる描法が継承されています。伝統とは一つの、大きなうねりの中の数々の革新の集積によって構築されるもので、決して過去を凍りつかせたものではない、ということを知らされるわけであります。

 江戸時代の中期の京都を考えてみると、当時、京都市民、いわゆる町衆が力を付け、絵画の分野ではこうした人々が購買層となって、円山応挙や与謝蕪村など後に名を残す町絵師達を輩出します。この時代、絵画だけでなく工芸品あるいは着物、道具類、あるいは菓子などの嗜好品まで京都の商品は高級品としての発達を見せます。尾形光琳の活躍した頃は女性が着物の華麗さを競うことなどがありまして、すべての女性が華やかな彩りのものを着ていたので光琳の妻はわざと黒地のものを選んで評判を得たと、そういうエピソードも残っているほど贅沢な時代でした。時代性というのは相互にかかわって成立するもので、あるものが高いレベルに達した時には他のものも同じようなレベルに至るなど、何かだけが突出してよい状態で他のものは悪いというバラつきは少ないように思います。女性達が美しい着物を競う時代に草履が粗末であるとか、髪飾りが質素である、そういうことは考えにくいことで、それら全体が一定のレベルで上質のものとなります。こうした時代はまた食べ物も豊かで音曲や舞踊など人々を楽しませるものもレベルが高くなります。それぞれのものがどこかでかかわっており、それらが相互に作用することでその時代の様相が決まってくると言えるでしょう。

 京都は周りを山に囲まれた一つの完結した世界とも言える地形をしていますが、都市としては人々が交流するには都合の良い大きさであったとも言えます。ちょうど18世紀の半ば過ぎでありますが、円山応挙と与謝蕪村は四条通で約500メートル離れた距離に住んでいました。蕪村のほうは17歳年長でしたが大変仲が良く、留守宅でも上がりこむほどの親しさであったと伝えられています。応挙は物の形を見えた通りに描くという写生派の画家で、一方の蕪村は俳諧師でもあり、絵画においては叙情味のある作風を展開しているので、二人の絵画表現における個性は全く相反するものであったと言えます。しかし、家が近く頻繁に交流を重ねる間柄であったからこそお互いの絵画に対する思想を意識し合い、自らの進むべき道を明確にし、画家としてのアイデンティティを強く打ち出すことができるようになったのではないでしょうか。

 京都は人々が交流するにはもってこいの大きさを持っており、様々な方と巡り合い、切磋琢磨することで生まれてくるアイデアや知識は新しいものを生み出していきます。江戸時代の当時、日本は鎖国をしいていましたが、京都には長崎の出島を通して様々な海外の文物が流入しておりました。また、宇治の萬福寺のような中国系の寺院が存在するなど国際都市としての機能も果たしていたと言えます。当時、萬福寺ではお経は唐音、つまり中国語であげられていたということです。寺院が様々な学術・文化の教育研究機関でもあり、あるいは室町時代、相国寺に周文という絵描きがおりましたが、周文に中国の画法を習った雪舟は、後年中国の明に渡り、自ら中国画法習得の旅を続けております。日本の歴史の中に登場する多くの名を残した人物達がここ京都から生まれています。

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