趣旨説明
「国家戦略としての京都創生」の取組について

京都市総合企画局政策企画室 京都創生推進部長
大瀧 洋


 ご存じのとおり、京都が誇る自然・都市景観・伝統文化は、日本の貴重な財産、世界の宝です。これらを守り、育て、そして未来へ引き継いでいくために、京都市では市民の皆さまとともに、全国に先駆けて、さまざまな挑戦的な取り組みを進めています。

 京都市では、大きく三つの分野にわたって取組を進めています。

 まず、景観の分野です。
 「新景観政策」として、建物の高さ規制など、全国に類のない取組を推進しています。とりわけ、屋外広告物については、条例に違反した状態にあるものを全てなくしていくため、対策を強化しているところです。

 また、京町家を守るため、市独自の制度として、「京町家まちづくりファンド」を設けて、改修にかかる費用を助成するなど、さまざまな取組を進めています。

 次に、文化の分野です。
 京都市では、世界遺産をはじめ、国宝や重要文化財などの保存・継承を進めています。同時に文化財に匹敵する価値があるものの、その歴史や魅力が十分に知られていないもの、長い歴史の中で引き継がれてきた建物や庭園、そして、先日、「和食;日本人の伝統的な食文化」がユネスコの世界遺産に登録もされましたが、京料理をはじめとする京の食文化、花街の文化などの文化的資産が数多くあり、これらを未来に継承していく取組も進めているところです。

 さらに、観光の分野では、外国人観光客や、国際会議の誘致などに積極的に取り組んでいます。

 これらの取組は、着実に成果を上げてはいますが、残念ながら、京都だけがいくら努力をしても、解決できない課題が数多くあります。

 まず、景観の分野です。
 例えば、市内に約4万8千件残存するといわれている京町家ですが、相続税や維持管理の問題などで継承することが難しいケースが多く、毎年約2%ほどが消失しています。

 また、「建築基準法」ができる前に建てられたものは、増築をしたりする場合に、いまの法律の基準に合わせたものにする必要があるため、伝統的な意匠や形態を保てないといった課題があります。

 次に、無電柱化ですが、電線や電柱のない美しい町並み景観をつくり出すためには、1kmあたり約7億円という巨額の費用負担が必要となるといった問題もあり、なかなか進みません。

 文化の分野です。
 伝統文化や伝統芸能、伝統産業など、京都には、ほかの都市にはない、独自のものが数多く受け継がれています。しかし、担い手の高齢化や後継者不足、そして伝統芸能を鑑賞する方が減ってきたり、伝統工芸品へのニーズが少なくなったりしてきているために、危機的な状況にあるものも少なくありません。

 このように、日本の原点とも言える京都の景観・文化は、担い手や所有者だけに任せていたのでは、この先、なかなか守り切れない面があり、一刻の猶予も許されない状況にあります。そのため、これらを保全・再生していくためには、国による支援が何としても必要になります。

 そこで、「国家戦略としての京都創生」という考え方が必要になってきます。このポイントは、京都を「国を挙げて再生し、活用する」というところで、京都創生を国の戦略としてしっかり位置づけ、さらに、国が推進する政策を実現するために活用してもらおうというものです。

 梅原猛先生に取りまとめいただいた提言を受けてスタートしたこの取組も、今年でちょうど10年になります。

 京都市では、「国家戦略としての京都創生」の実現に向けて、「国への働きかけ」、「市民の自主的な活動を支援する取組」、「京都創生のPR」の三つの柱を軸に取組を進めています。

 特に、一つ目の「国への働きかけ」が最も重要ですが、制度面や財政面で京都が抱える課題の解決につながるよう、毎年、門川市長を先頭に、国に提案・要望を行っています。

 また、国の関係省庁との研究会では、国の幹部職員に対して、直接、京都の実情を訴えながら、国と京都市とが一緒になって、京都の役割や活用方策の研究を進めています。

 これまでの取り組みの結果、すでに実を結んでいるものもあります。

 まず、景観の分野では、京都の先進的な取組がきっかけになり、「景観法」や「歴史まちづくり法」という法律がつくられました。そして、その結果、京町家や歌舞練場など、景観や歴史といった面で重要な建造物を修理する場合などに助成する制度が作られ、これを活用しながら、重要な建造物の改修や無電柱化などを推進しています。

 上七軒歌舞練場では、この助成制度を活用して、屋根や外壁の修理が行われました。また上七軒通りの無電柱化事業も、今年3月に完了しました。

文化の分野での成果です。
 まず、二条城ですが、京都市は国の補助制度を活用して、建造物の本格修理に向けた調査工事や障壁画の保存修理を進めています。しかし、多額の費用が必要となりますので、「二条城一口城主募金」へのご協力も広くお願いしているところです。

 次に、文化財の防災ですが、国が新たに作った補助制度を活用して、清水寺やその周辺の文化財や地域を火災から守るため、耐震型の防火水槽を整備すると同時に、文化財に燃え広がらないようにするための放水システムを整備しました。これは、全国でも初めての取組です。

 文化庁の関西分室の設置・拡充につきましては、文化庁の機能の一部を京都に設けてもらうよう働きかけてきた結果、市内に設置されていましたが、平成24年度からは機能を拡充して、再スタートしていただいています。京都市も京都芸術センターでの事業実施などで、積極的に協力をしています。

 次に、「古典の日に関する法律」の制定です。これは、11月1日を「古典の日」と定めて、古典に親しもうというものですが、京都の強い働きかけで、国会議員の有志に議員連盟をつくっていただき、法律を提出、成立していただきました。

 最後に、「和食;日本人の伝統的な食文化」ですが、ニュースなどでもご存じのとおり、先週、「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。京都市はこれまで京都府、NPO等々、オール京都の体制で登録に向けた取組を推進してきました。

 観光の分野での成果です。
 観光庁と京都市との共同プロジェクトですが、国と京都市とが連携して、外国人観光客の誘致や、受け入れ環境の充実などに取り組んでいます。これは、京都を世界トップ水準の外国人観光客の受け入れ体制を整えることで、全国のモデルにしようとするものです。

 この他にも、まだまだ成果があります。
 例えば、京町家の再生に対して、海外から支援をいただいています。これは、京都創生を海外に発信するプロジェクトの一環としてニューヨークで開催したシンポジウムがきっかけとなって、アメリカの財団から、京町家を改修して活用する二つのプロジェクトに対して、多額の支援をいただくことができました。

 京都創生の取組の意義ですが、この取組によって、国で新しい制度がつくられたり、制度が見直されたりしており、これが京都自身のためになることはもちろん、全国のまちづくりを京都が牽引するという役割も果たしています。

 京都創生の実現に向けて、新たな取組にも挑戦しています。国の特区制度を積極的に活用して、京都が抱える課題の解決のために、国に規制の特例措置や税財政の支援措置を設けてもらえるよう協議を進めています。

 京都市が国から指定された総合特区では、京町家の相続税の問題や無電柱化の問題をはじめ、京都創生に関わるものも多く提案していることから、「京都創生の推進のための総合特区」と言えるかもしれません。

 京都が提案した特例は、国と一つ一つ協議して、合意が得られなければ実現しないため、ハードルは非常に高いですが、実現の見通しがついたものもあります。

 外国人料理人が、日本料理のお店で働きながら学ぶことができるようにするための、「入国管理法」上の特例措置は、つい先日、11月29日でございますが、地域活性化総合特別区域計画が国の認定を受け、外国人の日本料理店での就労が、全国でも京都市内に限った特例措置として実現することになりました。

 今後も、「日本に、京都があってよかった。」と実感していただけるよう、京都創生の取組をさらに進めてまいりたいと考えています。

 今後、皇室の方に、京都の御所にもお住まいいただき、京都と東京の双方が都としての機能を果たす「双京構想」や、新しい国土軸であるリニア中央新幹線「京都駅ルート」の実現にも力を入れていかなければなりません。

 最後になりますが、本日ご参加の皆さまにおかれましても、これを機会に京都の魅力や、その裏側にある課題を再発見していただき、京都創生の取組と合わせて、身近な人にもお伝えいただければ幸いです。

 皆さまの一層のご支援と、ご理解・ご協力をお願い申し上げまして、京都創生の取組報告とさせていただきます。ご静聴ありがとうございました。





講 演
『近衞家の名宝 千年の記憶 −陽明文庫と御堂関白記−』

 

公益財団法人陽明文庫 理事・文庫長

名和 修 氏


世界最古の自筆日記

 本日は、近衞家の右京区宇多野にある陽明文庫が所蔵する『御堂関白記』についてお話しさせていただきます。陽明文庫には収蔵庫が2棟ありますが、1棟目が昭和13(1938)年に建ち財団法人陽明文庫が設立されました。2棟目は、昭和15(1940)年にできました。私は、最初に建った蔵と同じ年に生まれました。

 『御堂関白記』は現存する世界最古の自筆の日記として、2013年6月19日にユネスコの世界記憶遺産に登録されました。ユネスコの世界記憶遺産は、私も含めてほとんどの人が聞いたことがないと思われるほど、わが国ではあまり知られていない制度ですが、人類が長い間記憶して後世に伝える価値があるとされる書物などの記録物を登録しているもので、日本での第1号は2011年に認定された九州筑豊の『炭鉱記録画』です。

 外国人の中にも、この『御堂関白記』に早くから注目している学者もおり、30年前、フランス語で全文翻訳して出版している事例があります。

 『御堂関白記』は、近衞家、すなわち藤原道長の直系子孫の家に代々伝え残された史料で、平安時代の太政大臣・藤原道長が具注歴の余白に自ら著した日記です。道長の自筆であることも専門家の研究により証明されておりますが、全部で36巻あったとされるものの、現在は自筆本14巻、写本12巻しか残っておりません。

 具注暦とは、1年を正月から6月までと、7月から12月までの2巻に分け、それぞれ暦の上と下に、陰陽師が吉凶などを記して作成した歴です。

『御堂関白記』の不思議

 『御堂関白記』の自筆本は、「何年の巻の上」「何年の巻の下」と呼んでいますが、14巻もありながら、上下巻がそろった年はありません。どうしてなのか、その理由は確定していませんが、私は次のように考えています。

 摂関家にとって先祖の貴重な記録として道長の日記が伝えられ、二度にわたる分立(分家)のときに、全36巻あった『御堂関白記』を、それぞれ平等に分かち与えるようにしたのでしょう。そう考えなければ、14巻も残っていながら、各年で上下の片方だけしか残っていないことは説明が付きません。

 近衞家の先祖は、藤原道長の次が頼通で、師実、師通、忠実、忠通と歴代の関白が続きます。忠通の次の代で、忠通の嫡男である基実と、三男の兼実がたもとを分かち、関白家が二つに分家、分立します。長男基実の家系を近衞家と呼び、三男兼実は九条家と名乗りその後に近衞家からは鷹司家、九条家からは二条家、一条家と、それぞれが摂政関白になり得る家として独立しています。

 「関白記」とありますが、実は道長は関白になったことがなく、左大臣でした。道長が最初に仕えた一条天皇が亡くなり三条天皇の代になったときに、関白の詔を賜る機会がありましたが、道長は、十分に位階を頂いているので、いまさら関白の必要はないと辞退しています。これには裏がありまして、左大臣はいわゆる行政機構の最高責任者ですが、行政機構のトップではない関白になると左大臣を辞さなければなりません。当時の閣僚である陣の座を主導するのは左大臣であったので、その職にとどまる方が政権をふるえると考えたためでしょう。

 『御堂関白記』が書かれた当初は、『御堂殿御記』などと称されていたようですが、その後になってなぜ『御堂関白記』と呼ぶかと言えば、近衞家歴代当主が日記を書いていますが、道長以外は関白を歴任しているからです。当主の日記のことを代々「何々関白記」と呼んできましたが、歴代の日記が関白記であるのに、道長だけ関白記とならないのは不自然だとでも考えたのか、バランスを取って道長の日記も関白記としたのではないかと考えています。その証拠はまだ見つかっておりませんが、そのうち陽明文庫の蔵の中から出てくると思われます。

 この長保6(1004)年と表紙に書かれた巻は、7月20日に寛弘と改元されたので、寛弘元年の巻と呼んでいます。表紙は、高名な書家であった近衞家第17代当主・近衞信尹が装丁しています。このことは、長保6年の文字が信尹の字であることから確認されています。

 表紙見返しから、具注暦が始まります。ここに384日と、1年の日数が書かれています。旧暦の1年は30×6+29×6=354日ですが、それより30日多いのは、閏月が入っているからで、1カ月が丸々増えています。具注歴では、そういう年が3年に1回程度回ってきていました。

 暦に関する注記は、道長の字ではありません。暦の日付と歴注が1行に書かれており、道長は、その隣2行の余白に日記を書き込んでいます。正月4日は暦だけで、2行の空白がありますが、これは道長が日記を書くのをサボったか、政務に多忙だったからしょう。

 藤原北家嫡流の公卿・小野宮実資の『小右記』や、藤原行成の『権記』は、『御堂関白記』とほとんど並行して書かれていますが、それらの日記を見ると、道長は忙しくて、いろいろなことを書かなければいけないはずなのに、『御堂関白記』にはその記述がないこともよくあります。書くのがおっくうになって書かなかった日もあるのではないでしょうか。

 一番詳しく書かれているのは、道長にとって非常に大事な行事です。主なものは、天皇に関連した事柄です。現代の閣議のような議場で行われたことも、どういう案件をどのように指図して処分したなどと、詳しく書かれています。

 日付の上には、日・月・火・水・木・金・土の七曜が書かれています。現代の七曜とまったく同じで、いつ始まったのか起源は知りませんが、今日までずっと規則的に続いています。七曜は近世の太陽暦になってから、やっとわが国に入ったものだと思っている人は、この書は明治に書き込まれたのかと錯覚されますが、1000年前の道長の時代から書かれているものです。

 道長が仕えていた一条天皇と、中宮彰子の間に第一皇子が生まれたときの記事もあり、寛弘5(1008)年9月11日に、「午時平安男子産給」と書かれています。道長は、男子が無事生まれて大喜びをし、「平安」と書き、8文字の中に喜びの気持ちを表しています。

 和歌の贈答も書かれています。「左衛門督の許、かくいいやる。若菜摘む 春日の原に雪降れば 心遣ひを今日さへぞやる」。これが道長の歌です。左衛門督というのは藤原公任で、その人に送った歌です。その返歌が、「身をつみて おぼつかなきは雪やまぬ 春日の原の若菜なりけり」となっています。

 こういう和歌の贈答が行われた事実以上に、男性は本来漢字で日記を書かなければならない時代に、道長は仮名を用いていることが史料として重要な意味を持ってきます。宮廷の高い教養を持った人は男性でも、女性が主に使用した仮名を駆使していたことが分かります。

陽明文庫に伝わる数々の宝

 藤原道長の孫である師実は、『御堂関白記』が36巻あった時点で、全てを書写しました。それが14、5巻になり、そのうちのほとんどである写本12巻も近衞家に伝わり、道長自筆の14巻と一緒に陽明文庫のお蔵に所蔵しています。

 『御堂関白記』のほかにも、代々の近衞家の当主が記した日記があります。師実の子ども師通が書いた『後二条関白記』も国宝です。この日記は30巻という膨大な数ですが、残念ながら、自筆本はわずか1巻しか現存しておりません。

 『宮城図』も蔵書にあり「陽明門」が描かれています。これが陽明文庫の名前の由来です。近衞家の名前も、陽明門から発する平安時代の都の大路、近衛大路が元になっています。邸宅の面した通りの名前を取って近衛邸と呼ばれ、兼経以下の代々がそこに住み着いたので、その家のことを近衛家と名乗り、鎌倉時代には定着しています。

 寛弘6(1009)年に生まれた中宮彰子の2番目の皇子、後に天皇になられる後朱雀天皇の自筆文字も残っています。わずか2行ですが重要文化財に指定されていますので、数多くある陽明文庫の重要文化財でも一番文字数の少ない書でしょう。「当今御筆 長久五年」と添え書きがあり、当今(当代)の天皇である後朱雀天皇の自書であることが分かります。

 陽明文庫には、歴史史料的な価値ではなく、書あるいは料紙も含めて、美術工芸品としての付加価値が高いもので国宝に指定されたものもございます。行成筆という伝えですが、1050年ごろ、頼通のころの資料です。行成は1028年に亡くなっていますから、もちろん1050年に書かれたものはありません。行成に勝るとも劣らない優れた筆者によるものということで「伝行成筆」として残っている資料です。その内容は、藤原公任が編纂した『和漢朗詠集』です。和歌や漢詩を朗詠するときに、どういう優れた詩や和歌を朗詠するかという、便利な詩歌集です。公任は道長と同い年で、966年に生まれています。

 このように『御堂関白記』だけが陽明文庫のお宝ではありません。国宝8件、重要文化財60件を含む十数万点の貴重な史料がございます。

(スライド写真にて陽明文庫所蔵の品々を紹介)

『春日鹿曼荼羅』(重要文化財)

『和漢朗詠集』(国宝)

平成26年は、九州大宰府にある九州国立博物館で陽明文庫展を開催します。
時間が来たようです。これで終わります。

(講演終了)


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