京都創生推進フォーラム
シンポジウム「京都創生推進フォーラム」について

日 時 平成24年8月8日(水) 午後1時30分〜4時
会 場 金剛能楽堂


オープニング 舞囃子 「安宅」
金剛流宗家 金剛 永謹
笛:左鴻 泰弘 小鼓:曽和 尚靖 大鼓:谷口 正壽
地謡:廣田 泰能、金剛 龍謹、豊嶋 晃嗣、宇高 竜成


総 会 運営委員会委員紹介(10団体)

あいさつ 立石 義雄(京都創生推進フォーラム代表、京都商工会議所会頭)
門川 大作(京都市長)

京都創生取組報告 西野 博之(京都創生推進部長)

パネルディスカッション 「"伝統"の継承と創造」

パネリスト 天野 文雄 氏
(文化庁関西元気文化圏推進・連携支援室長、国際高等研究所副所長、大阪大学名誉教授)
  下出 祐太郎 氏
(下出蒔絵司所、京都美術工芸大学教授、京都工芸繊維大学伝統みらい教育研究センター特任教授)
  杉本 節子 氏
(公益財団法人奈良屋記念杉本家保存会常務理事兼事務局長、料理研究家、随筆家)
  小林 昌廣 氏
(情報科学芸術大学院大学教授、京都芸術センター運営委員)



主催者あいさつ


京都創生推進フォーラム代表  立石 義雄


立石義雄

 皆さん、こんにちは。当フォーラムの代表を仰せつかっております、代表の立石でございます。

 ご承知のとおり、東日本大震災が発生して1年半が経とうとしていますが、新たな日本再生への課題、あるいは原発事故に端を発したエネルギー問題など、明日へ向けて解決すべき多くの課題を、現在われわれは抱えています。また、昨年未曽有の大震災を経験した我々日本人は、本当の意味で人間の幸せとは何かを考えるきっかけとなったと思っています。例えば、人間の幸福観、あるいは家庭観、そして労働観、さらには環境、安心安全を重視する社会観など、価値観そのものが大きく変化していくきっかけとなったのではないかと考えています。

 このような社会状況において重要なのは、守るべきものを守りながら正しい人間の生き方、あるいは暮らし方、まちの在り方について、新たに創造することです。そして、その提案力がいま求められているのではないかと思っています。

 私は常々、高い文化と学術を有する創造的都市が、その時代の産業に革新を起こすと申し上げていますが、その先頭に立つ役割が京都にあるのではないかと考えています。この文化と学術に裏打ちされた京都独自の創造力は、1200年の時を経て新しい産業、あるいは生活文化を創造する知恵を生み出し続けており、京都はまさしく人間の生き方、暮らし方、まちの在り方の知恵の宝庫であると思っています。

 我々産業界においても、いま大切なのは、これまでのモノの豊かさに加えて、自然との共生、安心・安全、健康といった心の豊かさの追求、あるいは、生きている喜びを追求する自己実現に重点を置く新たな価値観のもとで、未来に向けた「革新と創造」を始めることではないかと思っています。

 現在会頭を務めている京都商工会議所においても、3年前から、ニュー京商ビジョンの中で、「知恵産業のまち・京都の推進」を方針としてまとめました。その中で、やはり1200年に蓄積された私たちの知恵を付加価値の源泉にして、これからの地域経済の活性化、あるいは雇用促進に貢献する、小さくてもキラリと光る内需型の中小企業を数多く生み出し、京都の発展につなげていきたいと考えています。

 また、今年10月に京都商工会議所が130周年を迎えるに当たり、さまざまな記念事業を通じ、京都内外の皆さまに京都産業の強み、知恵を知っていただける機会を提供することで、京都創生に微力ながら貢献してまいりたいと考えています。

 さて、本日のシンポジウムでは、「"伝統"の継承と創造」をテーマにパネルディスカッションを行います。本日ご参加いただきました皆さまが、京都の魅力を再確認いただくとともに、世界に向けてどのように発信し、伝え広めていくべきなのか、一緒に考える機会になればと思っています。

 結びに当たり、本日快くパネリストをお引き受けいただきました皆さまに、厚く御礼申し上げますとともに、本日のシンポジウムが京都創生の実現に向けて、力強い一歩になることを期待いたしまして、開会のごあいさつとさせていただきます。





市長あいさつ


京都市長  門川 大作


門川大作

 皆さん、こんにちは。京都市長の門川大作です。立石義雄会頭はじめ、京都ならではの素晴らしいリーダーの方々によって京都創生推進フォーラムを組織していただき、力強い取組を進めていただいています。また、このフォーラムにご参加いただきました皆さんに、心から敬意を表し、お礼申し上げます。

 多くの参加申込があり、抽選させていただいたと聞いています。ありがたい限りであります。昨年は第7回目ということで、7月7日に上七軒でシンポジウムを行いました。上七軒は、「国家戦略としての京都創生」の取組の中で誕生した、「歴史まちづくり法(地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律)」に基づく補助も得ながら、いま、電線電柱を地中化し、道路を石畳風にする、そんな取組が進んでおります。非常に美しく生まれ変わろうとしていますので、またごひいきいただけたらありがたいと思います。

 今年は第8回です。末広がりのめでたい日である、8月8日に、そして金剛能楽堂で開催させていただけることを、本当にうれしく思っています。

 さて、ただいま立石会頭から含蓄のあるお話を聞かせていただきました。東日本大震災を経て、本当に日本の地域社会の在り方、産業の在り方、エネルギー政策も含め、また一人一人のライフスタイルも含めて、厳しく問われており、あらゆる改革が求められています。

 私たちは被災地、被災者に心を寄せながら、同時に1200年を超える歴史の中で京都が培ってきたものの中に、この閉塞感に満ちた、混迷した日本社会を明るく展望していく、そのようなものがあると確信しております。これからも、オール京都で取り組んでまいりたいと思いますので、引き続きよろしくお願いいたします。

 昨日、京都に学ぶ留学生の方と交流する機会がありました。一人の留学生が、「市長、『日本に、京都があってよかった。』というポスターを見ました。私も同感です。見てうれしかったです。私は京都が好きで京都の大学に来ました。あれは良いキャッチコピーですね。」。このようにおっしゃっていただき、外国人から褒めていただき、とても喜んでいます。あらためて京都は日本の宝、世界の宝だと思いました。

 しかし、厳しい状況もあります。全国一律基準の相続税で、町家を売らざるを得ない状況になっています。せめて町家として使用している間は、相続税を猶予してほしい。また、「建築基準法」を、京都の歴史的都市の特性に応じて適用できるように、その在り方を考え直してほしい。いま、そのようなさまざまな取組、要望を進めています。しっかりと国に提案をしたことにより、観光を焦点に、また産業を視点に特区制度が認められましたが、さらなる権限の委譲等々、国に対して求めていきたいと思っています。

 同時に、京都市民がいま何をするかということであります。5年前に新しい「景観法」が制定され、市民ぐるみでさまざまな取組が進められています。この夏から全力を挙げていきますが、2年後の9月中には、京都市内のビル屋上の看板は全てなくなります。チカチカと光る電飾看板は、全部撤去していただきます。京都市内4万の建物にいろいろな看板が付いています。そのうちの7割、2万8千が新しい条例の基準不適格ということで、撤去していただいたり、付け替えていただかなければなりません。市民の皆さん、また経済界の皆さんには大変なご負担を掛けますが、そこまでしてでも、この京都のまちの美しさにさらに磨きを掛けよう、そんな取組をいま進めてます。

 関係者の皆さんに心から敬意を表しますとともに、私たちもしっかりと守って、頑張っていきたいと思っています。そして、素晴らしい景観を守る、文化を守る、文化遺産を守る、それと同時に創造していく活力ある京都をつくっていかなければならない。ぶれずにそうした取組を進めると同時に、この地域の未来をしっかりと見詰めながら、産業の発展も進めていきたいと思っています。

 私は4年半前に京都市長に就任しましたが、そのときの市の職員は1万6150人でした。この4月は、1万3700人です。徹底した行財政改革を進め、民間でできることは民間に、民間の英知を集結しながら、この日本の宝、京都を皆さんと一緒に守り、発展させていきたいと思います。引き続き皆さんのご指導、ご支援、よろしくお願いします。

 本日はありがとうございます。





京都創生取組報告


京都創生推進部長  西野 博之


 皆さま、こんにちは。ただいまご紹介いただきました京都市京都創生推進部長の西野です。本日は多くの皆さまにご参加いただきまして、誠にありがとうございます。

 さて、ご存じのとおり、歴史都市京都が誇る自然・都市景観・伝統文化は世界の宝、日本の貴重な財産です。これらを守り育て、そして未来へ引き継いでいくために、京都市では市民の皆さまとともに、全国に先駆けて、さまざまな挑戦的な取組を進めています。

 京都市の取組ですが、大きく三つの分野、景観・文化・観光の分野にわたって進めています。

 まず景観の分野ですが、平成19年から市民の皆さまの多大なご協力をいただきながら、全国で最も厳しいといわれる建物高さ規制をはじめとする、新景観政策を実施しています。最近では、屋外広告物について条例の基準に違反した状態にあるものを全てなくしていくために、対策を強化しているところです。

 また、京町家の関係では、京町家を守るために京都市独自の制度としまして、平成17年に京町家まちづくりファンドを設けて、改修に掛かる費用を助成するなど、さまざまな取組を進めています。

 次に文化の分野です。市内14カ所の世界遺産をはじめ、全国の約19%が集まる国宝、約15%が集まる重要文化財など、歴史的、文化的資産の保存、継承を進めています。さらに観光の分野ですが、外国人観光客や国際会議の誘致などに積極的に取り組んでいます。

 しかし、京都だけが努力をしても解決できない課題が数多くあります。

 まず景観の分野です。一つ目の京町家ですが、現在市内に約4万8千軒が残っていますが、相続税や維持管理の問題などで継承することが難しいケースも多く、毎年約2%が消失しています。また、「建築基準法」ができる前に建てられたものは、増築をしたりする場合に、いまの法律の基準に合わせる必要があり、伝統的な意匠、形態の継承が困難となっています。

 二つ目は無電柱化です。電線や電柱のない美しい街並み景観をつくり出すためには、1キロメートル当たり約7億円という巨額の費用負担が必要となるという問題があり、なかなか進んでいません。パリやロンドンでは無電柱化の達成率がすでに100%になっており、その一方で京都市内では歴史的な景観に配慮すべき地域を含む、重点整備対象地域だけでも7%程度にすぎません。このままのペースで整備をしていくと、あと70年以上かかってしまうという状況です。

 文化の分野です。先ほど、ご披露いただきました能をはじめ、伝統芸能、それから伝統文化や伝統産業などの、京都には他の都市にはない独自のものが数多く受け継がれていますが、担い手の高齢化、後継者不足、また伝統芸能を鑑賞する方が減っていたり、伝統工芸品へのニーズが少なくなってきているため、危機的な状況にあるものも少なくありません。

 このように日本の原点ともいえる京都の景観、文化を、担い手や所有者だけに任せていたのでは、この先なかなか守り切れない面があり、一刻の猶予も許されない状況にあります。そのため、そういったものを保全、再生していくためには、国による支援がなんとしても必要になります。

 そこで、「国家戦略としての京都創生」という考え方が必要になってきます。ポイントは、国を挙げて京都を再生して活用するというところで、京都創生を国の戦略としてしっかり位置付けることにあります。この考え方による取組は、梅原猛先生に取りまとめていただいた提言を受けてスタートしています。

 京都市では「国家戦略としての京都創生」の実現に向けて、「国への働きかけ」、「市民の自主的な活動を支援する取組」、「京都創生のPR」、これら三つを軸に進めています。

 特に一つ目の「国への働きかけ」が最も重要です。制度面や財政面で、京都が抱える課題の解決につながるように、毎年、機会を捉えて、国に提案、要望を行っています。また、国の関係省庁との研究会では、六つの省庁から26名もの幹部に参画いただいており、国の省庁の幹部に対して直接、京都の実情を訴えながら、国と京都市が一緒になって、京都の役割や活用方策の研究を進めています。

 これまで国への働きかけなどを通して、提案、要望の一部はすでに実を結んでおります。まず景観分野についての成果ですが、京都の先進的な取組がきっかけになり、「景観法」や「歴史まちづくり法」という法律がつくられました。そして、これらの法律に基づいて、指定を受けた京町家や歌舞練場などの重要な建造物を修理する場合などに助成する制度がつくられました。そして、これを活用しながら歴史的建造物の改修や無電柱化などを推進しています。

 上七軒歌舞練場は、この助成制度を活用し、屋根や外壁の修理が行われました。また、京都市では歌舞練場周辺の歴史的街並みの修理、修景工事に対しても助成しています。現在は上七軒通の無電柱化事業に取り組んでおり、今年度中の完成を目指しているところです。

 文化についての成果です。京都市が所有、管理してる二条城では、国の補助制度を活用し、二の丸御殿、本丸御殿などの本格修理に向けた調査工事、障壁画の保存修理を進めています。しかし、本格修理となりますと、やはり多額の費用が必要となりますので、二条城一口城主募金へのご協力も広くお願いをしています。

 また、文化財の防災面でも、国が新しくつくった補助制度を活用し、清水寺や、その周辺の文化財、地域を火災から守るために、高台寺公園の地下、清水寺の境内の2カ所に25メートルプール5つ分に相当する耐震型の防火水槽を整備すると同時に、法観寺の境内には、文化財に燃え広がらないようにするための放水システムを整備しました。これは、全国でも初めての取組です。

 さらに三つ目ですが、文化庁の関西分室の設置拡充です。京都市をはじめ文化的資源が数多く存在する関西に、文化庁の機能の一部を設けてもらうように国に対して働きかけてきた結果、これまで京都国立博物館の中に文化庁の関西分室を設置していただいていましたが、昨年度に設置期限を迎えたことから、分室の機能を拡充したうえで引き続き残していただくよう国に対して要望した結果、今年度からも引き続き、機能を拡充したうえで設置いただいております。京都市も京都芸術センターにおいて事業実施するなど、積極的に協力していくこととしています。この後のパネルディスカッションでは、この関西分室の天野室長にもご参加いただくことになっています。

 観光分野についての成果です。去年の1月から、観光庁と京都市の共同プロジェクトで、外国人観光客の誘致や受け入れ環境の充実などに取り組んでいます。これは、京都が世界トップ水準の外国人観光客の受け入れ体制に整えることで全国のモデルとしようとするものです。この共同プロジェクトも最大限に生かしながら、国が目指す観光立国の実現に向けて、京都が積極的に貢献していきたいと考えています。

 このほかにも、多くの成果があります。例えば、京町家の再生に対して海外から多大なご支援をいただいております。これは、京都創生を海外に発信するプロジェクトの一環として、平成20年にニューヨークで開催した京町家シンポジウムがきっかけとなりました。アメリカのワールド・モニュメント財団というところから、京町家を改修して活用していくための二つのプロジェクトに対して多額の支援をいただくことができました。

 京都創生の取組によって、国で新しい制度がつくられたり、制度が見直されたりしており、これが京都の歴史的景観の保全、再生、文化財の保全、継承の取組に対して大きな効果をもたらしています。そして、全国で進められている、歴史・文化を生かしたまちづくりを京都がけん引するという役割を果たしています。さらに、国が目指している観光立国日本にも大きく貢献しています。ここに京都創生の取組の大きな意味があると考えています。

 これら京都創生の取組は、ただ国に求めるだけではなく、地元京都でも、市民の皆さまや企業、団体と、京都市が手を携えて、オール京都で進めていかなければなりません。そのため、本日の京都創生推進フォーラムを中心に、京都創生の取組の周知を図り、市民の皆さまの自主的な活動を支援することで京都創生を推進していこうという機運を高めるように努めています。

 また、今年2月には首都圏で京都創生をPRする「京あるき in 東京2012」を開催し、京都ゆかりの企業、団体、大学の皆さまにご参画いただきながら、2週間にわたり東京で京都の魅力を集中的に発進いたしました。

 その結果、京都市などの主催事業だけでも、約16万人もの方に参加いただきました。また、マスコミにも数多く取りあげていただきました。オープニングでは、女優の名取裕子さんや、華道未生流笹岡家元の笹岡隆甫さんにもご出演いただき、門川市長と対談していただきました。

 京都創生の実現に向けて、新たな取組にも挑戦しております。国がつくった総合特区制度を活用し、京都が抱える課題の解決のために、国に規制の特例措置や、税、財政の支援措置を設けてもらえるよう、協議を進めています。

 この特区は、京都観光の質をさらに高める5千万人感動都市を目指すものです。提案内容には、これまで京都創生でも国に訴えてきた京町家の相続税の問題や、無電柱化の問題をはじめ、京都創生に関わるものが多く含まれることから、個人的には京都創生推進のための総合特区といえると思っています。

 国との協議では、厳しい指摘を受けているものが多くあり、特例措置の実現のためには高いハードルを越えていかなければなりませんが、この総合特区の取組も積極的に進めていきたいと考えています。

 今後も、京都の持つ強みを最大限に生かし、魅力をさらに高めることにより、日本に京都があってよかった、世界に京都があってよかったと実感していただけるよう京都創生の取組をさらに進めていきたいと考えています。

 最後になりますが、このシンポジウムをきっかけに、京都の魅力を再発見していただき、京都創生の取組を身近な人々にも広めていただければ幸いに存じます。皆さま方の一層のご支援とご理解、ご協力をお願い申し上げて、京都創生の取組報告とさせていただきます。




パネルディスカッション  「"伝統"の継承と創造」

パネリスト

天野 文雄 氏  (文化庁関西元気文化圏推進・連携支援室長、国際高等研究所副所長、大阪大学名誉教授)
下出祐太郎 氏  (下出蒔絵司所、京都美術工芸大学教授、京都工芸繊維大学伝統みらい教育研究センター特任教授)
杉本 節子 氏  (公益財団法人奈良屋記念杉本家保存会常務理事兼事務局長、料理研究家、随筆家)
小林 昌廣 氏  (情報科学芸術大学院大学教授、京都芸術センター運営委員)





小 林

 あらためまして、よろしくお願いいたします。いつも京都芸術センターでは、歌舞伎についての講座のようなものを隔月でやらせていただいております。

小林

 本日のシンポジウムの流れですが、それぞれ3人のパネリストの方々に、京都という場所、あるいは京都という空間、あるいは京都という文化において、どのような活動を具体的になさっているのかということをお話しいただきます。その後に適宜ディスカッションというかたちで進めさせていただきたいと思います。

 このシンポジウムは、インターネットによる中継も行っており、全国に配信されていますので、よろしくお願します。

 では、天野さんから、自己紹介、あるいは活動内容を含めて、ご発表をいただきたいと思います。



天 野 天野

 天野でございます。まず、自己紹介を少しだけさせていただきます。それから、本日のテーマについて、私が基本的にどのように考えているか、あるいはどんなことをしてきたかということを、なるべく手短にお話したいと思います。

 その前に二点、これはこのフォーラムの、ひとつの結論めいたことになってしまうかもしれませんが、お話しさせていただきます。

 一点目は、今日のテーマは「"伝統"の継承と創造」ということですが、これは他のパネリストの方も同意見だと思うのですが、この継承のうちには、当然、創造ということが含まれているということです。ですから、これからの話しは、私の話も含めて、どのようなかたちで創造がそこに含まれるのかということが問題になるのではないかと考えています。

 もう一点は、これは最近知ったことなのですが、私は能を研究していますが、能は「伝統演劇」「伝統芸能」などと言われていて、私もそう言ってきましたが、「伝統」という言葉は実はごく最近のもので、そう古くはないということです。明治の時代にはまだ使われていなかった。大正ごろから使われ始めてきた言葉だということです。それが、いま使われているような意味、つまり、長い時間を貫いて流れる一つの特性というような意味で、特に文化について使われ始めたのは昭和に入ってからだということを、つい最近、知ったのですが、そういうことも、少し話題にできればと思っています。

 それでは、自己紹介を始めたいと思います。最初は、私の研究の仕事です。どんな研究書を書いてきたかということを紹介させていただきます。研究書は全部で8点あります。
(スライドを使用しながら説明)

 まず最初は、昭和62年の「岩波講座 能・狂言」の第1巻『能楽の歴史』です。共著ですが、実質は表章先生のお手伝いです。全400頁のうち、3分の1を執筆しています。これは大阪に来る前の仕事です。

 次は、『翁』についてまとめた『翁猿楽研究』です。470ページぐらいの本で、私の学位論文でもあります。

 次は、『能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記』です。講談社選書です。秀吉の晩年の6年間の能楽愛好を書きました。250ページぐらいの本になりましたが、これはずいぶん反響があった本です。

 次の『現代能楽講義』は概説書です。私の本の中では一番売れていまして、今年2月に第4刷が出たばかりです。新説をかなり盛りこんだ、ちょっとユニークな概説書だと自分では思っています。

 5番目の『世阿弥がいた場所―能大成期の能と能役者をめぐる環境―』は最近の著作になります。私の主著を一つ挙げるとすれば、これを挙げたいと思います。世阿弥の作品の中に、彼がどういう環境で活動していたか、それが彼の作品にどう反映しているかを論じています。10年くらいのあいだに執筆した論文をまとめたものです。

 最後は、『能苑逍遥』上・中・下の3冊です。原稿用紙でいうと10枚前後の短いものを、特に能の会のパンフレットなどに書いたものが多いのですが、内容は随筆などではなく、小研究です。100本ぐらいの小論を3冊にまとめました。上巻が『世阿弥を歩く』、中巻が『能という演劇を歩く』、下巻が『能の歴史を歩く』となっています。

 このような研究を、これまでやってまいりました。その間、実は、伝統ということを、あまり深く考えてきませんでした。また、何となく昔からある言葉と理解していました。

 以上をふまえて、本日のテーマに即した、研究の延長上にある私の活動を映像で紹介させていただきたいと思います。

 これから見ていただくのは復曲をめぐる活動です。復活上演、つまり現在上演されていないものを復活する活動を、特に大阪の大槻文蔵さんと一緒にやってきました。数にして、16回くらいは行ってきていますが、そのうちのいくつかを映像で紹介したいと思います。古い順からです。
(映像をスクリーンに写しながら説明)

<映像1>『維盛(これもり)』
 これは当時のニュース映像です。平成元年の放送です。『維盛』という平家物の能を復活上演したときのものです。これは観世栄夫さんですが、観世栄夫さんがワキをやったのです。このときは、演出を変えて2回上演しました。2回目は2日後でした。

 維盛というのは清盛の孫です。清盛の子どもが重盛、重盛の子どもが維盛です。那智浦で入水をした武将です。その亡霊の話です。こういう作品が世阿弥の時代にできていたのですが、ずっと上演されていなかったのです。それを復活しました。

 <映像2>『敷地物狂(しきじものぐるい)』
 これは平成9年の復曲です。シテは大槻文蔵さん。子方はご長男の一文君です。舞台は加賀大聖寺、いまの加賀市です。これも古い能です。これは比叡山で修業をして戻ってきた僧と母親が再会する場面です。いまでも敷地の宮、菅生石部神社という神社がありますが、そこが舞台です。

<映像3>『泰山木(たいさんもく)』
 泰山木というのは桜の一種の名です。シテが泰山府君、地獄の神様です。人の命をつかさどる神様です。季節は春で、桜の命が1週間なのを、あまりに惜しいので3倍に延ばすという、簡単にいえば、そういうストーリーです。いま、映像に出ているのが天女です。天女があまりの桜の美しさに花の枝を手折ってしまうのですが、それを元に戻させて、接ぎ木をして3倍に延ばすというかたちになっています。いま演じているのは梅若六郎さん、現在の玄祥さんです。天女は観世の家元の清和さんです。

<映像4>『碁(ご)』
 『碁』という曲名からおよそ想像がつかないと思いますが、『源氏物語』に取材した作品です。空蝉と軒端荻(のきばのおぎ)という『源氏物語』の人物が登場します。向かって左が空蝉です。空蝉のもとに光源氏が通ってくる話をもとにしているわけですが、光源氏は、この能には登場しません。

 いまから600年ほど前が世阿弥の時代ですが、それよりも少し後の時代にできたものです。私がかかわったのは、だいたい世阿弥時代の作品の復曲が多いのですが、これはやや新しい作品です。このように碁を打つ場面があったりします。夢幻能ですから二人とも亡霊です。

<映像5>『菅丞相(かんしょうじょう)』
 菅原道真を主人公にしたものです。これは能楽堂での上演ではありません。大阪天満宮の本殿前に舞台を組みました。これもシテは大槻文蔵さんで、ワキは福王茂十郎さんです。

 これは平成13年、その年が道真の千百年忌に当たっていて、大阪天満宮から依頼されて実現した催しです。私の推定では南北朝時代にできていた作品だと思います。『雷電』という能に大変似ているのですが、『雷電』よりはるかにいい作品だと思います。


 いまご紹介したのは復曲ですが、このような復曲は、鑑賞する側にとっても新鮮であるのはもちろんですが、とりわけ演ずる側に大きな意義があると思います。というのは、演者は普通、子どものときから稽古をしていて、謡や舞、あるいは所作のかなりの部分が体に入っているので、実際の舞台に際しては、申し合わせという名のリハーサルがあるくらいで、それ以外に出演者が集まって行う稽古はありません。それで本番を迎えるのです。

 ところが、復曲だとゼロから始めるわけです。そもそも文句が頭に入っていない。もちろん、この言葉の文句は何だろうか、というようなことも考えなければなりません。これは、ほかの演劇の世界ではごく当たり前にやっていることなのですが、伝統演劇である能の場合には、そういうステップを踏まないで上演に至っているのです。そういう中で、復曲になると、そのようなやりかたができない。それで、たぶん能役者は初めて自分が演劇の役者であるということを実感するのではないかと思います。

 私はこういう活動に比較的多く関わってきましたので、「"伝統"の継承と創造」ということを考える材料になればと思って、紹介させていただきました。



小 林

 どうもありがとうございました。

 天野さんの話ですと、まず伝統という言葉そのものが伝統的な表現ではないということですね。それから、復曲というのは、鑑賞者の側よりも、特に演者の側が現代劇と同じようなプロセスで、作能というか、能をつくっていくということが非常に重要であるというお話です。

 私も碁を打っている能は、初めて拝見しました。歌舞伎でも、碁が登場するのは『金閣寺』(『「祇園祭礼信仰記」』)とか、それほどはないので、珍しいなと思いました。

 ついでながら、例えば日本舞踊とか、日本画などという表現も、明治になってからでないと、出てこない表現です。つまり西洋から絵画、油絵が入ってきて、いままで自分たちがやってきた水墨画や山水画を何と名付けたらいいだろうかということを、総体的にまとめるために日本画という概念が浮かんだのです。

 日本舞踊の場合は少し複雑で、もともとは舞と踊りしかなかったわけで、それが舞踊という言葉に最初になり、それから西洋から、クラシックバレエのようなものが入ってくることで、西洋舞踊、洋舞という言葉が入ってきて、それに対して自分の国でやっているものは何なのかという相対化が生まれ、日本舞踊という言葉ができたということです。ですから、実はどの言葉も伝統的ではないということなのです。

 私は落語の評論もやっていますが、落語も古典落語という言葉がありますが、あれは昭和29年以降のラジオ番組から始まった言葉だそうです。それまでは古典落語という表現はなかった。もちろん落語も、新作や創作というのは、幕末から明治に活躍した圓朝(三遊亭圓朝)以来ずっとありますが、それに対して古典という言葉は使わなかったのです。

 そういう意味で、伝統とか、古典とか、日本とか、われわれが昔から聞いていて、守るべきものと非常に公式化されているものは、実は意外に新しいということのとっかかりを天野さんがお話しいただいたのではないかと思いました。

 では、引き続き、下出さん、お願いします。



下 出

 ただいまご紹介いただきました下出祐太郎でございます。

 私は、祖父の代から京都市内で蒔絵業を営んでおり、今年で九十数年になります。京都でいうと、まだ3代目で、90年ぐらいですので、蒔絵師としてはまだまだ京都人になりきっていないところがありますが、どうぞよろしくお願いいたします。

 先ほどは、伝統という言葉は近年になってから登場したというお話でしたが、この前どこかで話をしているとき、「産業に伝統という言葉が付き出すともうあかんで。」ということを聞いたのを思い出しましたが、なくさないために一生懸命頑張っていきたいと考えています。

 それでは、蒔絵師としてどのような取組をしているかということと、漆の歴史等について、紹介させていただきたいと思います。
(スライドを使用しながら説明)

 世界的に見た場合に漆がどの辺にあるかというと、東アジア全域にあり、日本をはじめ朝鮮半島から中国大陸、そして南の方まで広がっています。それぞれの国に漆の木があり、漆の工芸品産業が存在しています。

下出

 例えば、ミャンマーでは仏像が漆で塗られていますし、同じミャンマーですが、僧侶が托鉢して歩くときの鉄鉢の器に漆が塗られています。驚くべきことに、漆を刷毛で塗らずに、手のひらで塗っているのです。その映像を見つけたときは、本当にびっくりしました。

 また、歴史の古い中国においては、漢の時代の戦闘用具の盾に漆が塗られ、模様が描かれていました。

 では、世界的に見て、漆の一番古いものはどこにあるのか。平成13年に北海道の垣ノ島のB遺跡から発掘された出土品は、繊維に漆が塗られたものだったのですが、実はこれが世界で最古のものとなりました。いまから9千年前のものです。

 私が学生時代は、日本においては、5千年前の福井県の鳥浜貝塚遺跡のものが一番古いものとされており、世界で一番古いのは、6千500年前、中国の河姆渡(かぼと)遺跡のものといわれていたのですが、平成13年に、一気に数千年さかのぼり、世界で一番古いものが日本に存在したということになったのです。"存在した"と申しますのは、残念ながらこの年に所蔵庫から出火して、燃えてしまったので、今は存在していないのです。

 では、日本で一番古い伝世品は何かと申しますと、法隆寺の玉虫厨子です。世の中に工芸品のかたちで伝わっているものを伝世品といいますが、その一番古いものが法隆寺の玉虫厨子です。この飾り金物、各段の側面に透かし彫りの金物が付いているのですが、そこに玉虫の羽を数千匹分敷き詰めたところから、玉虫厨子という名前が付いています。

 私の仕事は、塗り物の上に漆で模様を描いて、そこに金とか銀の金属の粉末を蒔いて描く蒔絵というものですが、そのなかで一番古いものが正倉院御物にある金銀鈿荘唐太刀(きんぎんでんかざりのからたち)の刀の鞘(さや)に施された蒔絵とされています。蒔絵は、漆の樹液を採って、精製して、筆に付けて模様を描いて、金属を粉末にして蒔くという技術ですので、一朝一夕にこのようにできるわけではありません。もちろん、前時代からこういった技術が積み重ねられ、そこに終結したと考えられるのですが、一応蒔絵の一番古いものという位置付けになっています。

 漆というのは樹液なのですが、山野の低いところに生えており、ピクニックに行って触ったらかぶれたという方もいると思います。そういった身近なところにある漆ですが、漆は樹木に何箇所か傷をつけ採取します。10年以上経った1本の木から、6月から10月まで日数を置いて、ひっかいてにじみ出るものをかき取って溜めていきますが、1本の木から牛乳びん1本分程度にしかならないという、大変貴重なものです。そして、その年にはその樹を切り倒してしまうことになります。漆のいのちというか、血液で仕事をさせていただいているということがよく分かります。

 漆工芸品は、私たちは生活の中で、お椀とか、お盆といったさまざまなものに使われ、私たちの生活になじんでいるということで、京都においては1200年つくり続けてこられたことになります。

 伝統的工芸品産業の現状ですが、生産額において、昭和58年に5千406億円だったものが、平成21年度には1千281億円。そして従事者数でいうと、昭和54年に28万8千人だったものが、平成21年度には7万9千人と激減しています。すなわち、7割以上減っているという惨たんたる状況になっており、この1200年続いてきた伝統、漆だけではなくもちろん繊維産業もそうですし、石、木、そういった産業もひっくるめた、伝統産業はこういった状況です。なんとかしなければならない。ものづくりの原点である、この文化的なものをなんとかしなければならないと考えています。

 伝統工芸産業というものには、ものづくり文化に内包された膨大な知恵があります。自然観、哲学に根差した美意識があります。伝統工芸技術の継承、すなわち蓄積されてきた知恵を用い、先ほどお話ししたように、漆の樹液を採り、精製し、塗り物にしたり、絵の具兼接着剤にしたりしています。私たちが使っている塗り刷毛は、女性の髪の毛でできていますし、変わったものでいうと、ネズミの脇毛、ネコの玉毛といったようなものでできているものもあります。これらは、膨大な時間の中で、筆と漆の相性などを考慮しながら生み出されてきた知恵に違いありません。そして、1200年間、ものづくりをしてきても何ら環境に影響を与えない素晴らしい知恵が内包されています。その美しいデザインや、使い方、美意識、工芸技術が非常に大事なものであるという認識を持っています。

 これを守るための、私の取組ですが、「高台寺蒔絵復元調度事業」と銘打ち、30点の復元的屏風の制作とヨーロッパ展示を目論んでいます。

 なぜ、高台寺蒔絵かというと、種子島に鉄砲が伝来して以来、フランシスコ・ザビエルや、ルイス・フロイスという宣教師たちが日本へやって来ますが、すぐさま蒔絵で宗教用具をつくらせたという歴史があります。おそらく彼ら宣教師が豊臣秀吉と謁見したとき、高台寺の霊屋(おたまや)に展開されている伏見城の遺構と伝わる建築装飾蒔絵を見て非常に驚き、すぐさま宗教用具をつくらせたのではないかと考えております。それを母国のヨーロッパに紹介し王侯貴族に愛されて、東インド会社の交易による膨大な輸出漆器につながりました。先般、テレビで在外秘宝を特集したものがありましが、マリーアントワネットのコレクションをはじめ驚くべき数がヨーロッパに存在しています。20世紀初頭においては、万国博覧会で再び漆器が脚光を浴び、現代社会においては、近代の輸出産業に結び付いたということで、輸出産業の原点、あるいはものづくりの原点が高台寺蒔絵ではないかという位置付けから、私はそれに取り組んでいます。

 高台寺蒔絵は硯箱のように小さなものではなくて、建築装飾として大型に花開いた時代のものです。私は今申した輸出漆器につながる代表的な逸品を、30本の屏風として仕立てて、海外に持って行き、それらを持ってヨーロッパの各地を美の親善大使として巡回展示し、再び日本に帰って帰朝報告し伝統産業や日本文化の活性化を促したいという夢をもっています。

 蒔絵は、金粉の形と大きさによって、施される技術が異なります。ですから復元にあたり、マイクロスコープで当時の金粉を特定しようという試みをしました。それをもって、金粉から技術を考察してつくり直したというか、復元的制作をさせていただいたという経緯があります。若い子たちに指導をしながら、400年前の美意識と技術で復元的作業をしたのです。

 そして昨年の11月29日から、今年の4月9日まで、イギリスのロンドンのヴィクトリア&アルバートミュージアムで展示をしていただきました。400年前の技術をよみがえらせ、それを現代的につくったということにおいて、国立の博物館にすぐさま展示をしていただき、大変喜んでいます。

 展示初日に、ロンドンの国際交流基金ロンドン日本文化センターで講演をさせていただきました。向こうでも、非常に興味を持って迎え入れられました。

 今後の活動ですが、京都で1200年続いている漆文化の継承と発展を目指し、とにかく30本の屏風をつくりたいと考えております。



小 林

 どうもありがとうございました。復元作品ではなくて、"復元的"と付いているのは、なくなってしまったものとか、破損したものを復元していくということではなく、もともとあるものから、その技術を抽出して、その技術を使って同じものをつくっていくというような理解でよろしいですか。



下 出

 復元制作というと、技術やその他のものを全部同じものにして、同じようにするというカテゴリーになると思うのですが、今回、金粉を整理研究したところ、つくり方が現代の金粉とまったく違うということが分かり、それに近いものを使わせていただきました。また、研究の結果、その使用された金粉ごとに、当然施されるべき技術工程があるのですが、高台寺蒔絵においては少し荒っぽいところがあり、その技術工程が省略されているところも多々見受けられました。

 それらを含めて今回、完成形で制作するということを目指し、現代にきちんとしたかたちでよみがえらせました。若い世代に伝承しながらつくるということを念頭に据え、現代に流通している金粉を使用、施すべき技術工程は施して最高のものを目指してつくったという2点において、"復元的"と申しました。



小 林

 "復元的"とは、要するに現代的と読み替えてもよいということですね。

 海外では、どのような質問が出ましたか。



下 出

 こういったことをしている人はたくさんいるのかとか、現代でもこういうことが本当に日本でなされているのか、ということが主でした。その後にも、ワインセッションがあり、道具や材料等を持って行っていたので、非常に熱心に聞いていただきました。



小 林

 では続いて、杉本さん、よろしくお願いいたします。



杉 本

 はい。杉本節子です。どうぞよろしくお願いいたします。

 今日のこのフォーラムは、テーマが「"伝統"の継承と創造」ということですが、私は継承という方面からお話をすることが主になってくるかと思います。

 まず、杉本家住宅という京町家を私は継承保存しているのですが、その杉本家住宅の簡単な紹介と、現在はどのようにして継承しているのかということについて、お話をしたいと思います。
(スライドを使用しながら説明)

杉本

 杉本家住宅は京町家で、明治3年に棟上げし、今年で築142年をむかえる建物です。現在、この住宅がある京都市下京区矢田町に、私どもの先祖が明和4(1767)年、いまから245年前の江戸時代に店舗兼住宅を構えました。いま、私の父が当主で9代目ですが、当地で代を重ねてきた家ということになると思います。 その年数と建物の建築年数に百数十年違いがありますが、これは蛤御門の変(禁門の変)で市内が焼け落ちたときに当家も家を失ったからです。その6年後に再建したのが現在の杉本家住宅になります。間口が約30メートル、奥行きが約50メートルの敷地に、平面を持つ建物です。これがいわゆる大店商家の構えと表現される理由です。この建物は平成2年に京都市の有形文化財に指定されましたが、一昨年の平成22年に国の重要文化財に指定をされております。

 杉本家の家業は、江戸期寛保3年、いまから269年前に創業しました呉服商でした。京都に住まいと本家を置きながら、関東方面、他国で店(たな)を持って、京呉服を商いする他国店持(たこくだなもち)京商人という商売形態で、当家の場合は千葉に店舗を置いて、掛け値なしの商いである旨を看板に掲げ、呉服の商売をしていました。

 建物の内部についてです。座敷は客間ですが、京間十畳、脇床(わきどこ)には地袋という収納を備えています。台所は、下にかまどがあり、建物自体は2階建ての高さですが、大屋根の屋根裏まではまったく何も貼らずに吹き抜けの状態になっています。おくどさん、つまり、かまどは黒レンガでつくられています。おくどさんの傍らには荒神棚という棚があります。ここに伏見人形を数体飾ります。小さいものから順に、7体集めていくと商売が繁盛になるといういわれがある人形なのですが、当家では小さいのが1体残っているのみです。

 町家の敷地の一番奥に、「おくら」と呼ばれる土蔵があります。一番北へりの西の方向に蔵が三つ残っています。一番敷地のどんつき、座敷、座敷庭を隔てた奥にお蔵を構え、北西の方角、戌亥(いぬい)の方角になり、家の棟の置き方としては、吉相の方角にこの土蔵が建てられていることになります。蔵の窓は鍵型というか、段々に階段状になっていて、外からの空気を遮断する効果があります。この土蔵は、禁門の変の火事では焼け残ったと伝えられています。

 続いて、庭ですが、庭は、昨年2月に国の名勝に指定されました。正式名称を、杉本氏庭園といいますが、この指定は、名勝としては初めて京町家の庭が対象にされた例となります。当家にはいくつかの庭がありますが、西本願寺の門徒であった当家の信仰に関わる歴史背景と、庭のつくりは、実は非常に関わりがあります。本山との密接な関わりを示す杉本家固有の庭ということで、これも名勝に指定されている部分です。

 通常、名勝とされていたのは、いわゆる草木の植樹された庭、または自然の景観が優れているところだったのですが、当家の杉本家住宅の庭は、これまでのそうした指定概念になかった要素が含まれています。

 表戸口からずっと奥、四間ほど行くと、走り庭が出てきます。ここには屋根が掛かっていて、草木の植栽もなく、暮らしの中で使われている、いわば作業場であったり、通路であったりという庭です。そういう部分も名勝指定の庭ということで、指定されているわけです。このことは、建物そのものに加えて、そこに暮らす人間が関わる全ての空間が国から文化財として評価されたことを意味していると思います。文化財保存は、よくいわれるように、単に建物を凍結的に保存していくことという風に受け止められがちなのですが、そういったことではなく、特に京町家という生活の営みを基本とする建造物における守り方について、一つの方向性を国が示した事例であると思います。

 公益財団法人というかたちで、いま杉本家を守っていますが、平成4年にこの財団法人が設立して今年で20周年をむかえます。この財団法人は、当初は京都市の文化財の建物を継承すると同時に、杉本家に伝わってきた京町衆の文化を伝承することが設立の目的であり、事業の目的でした。財団になってからも、これまで行われてきた従来の暮らし方を、ほぼそのままに継承し、用途をできるだけ変えずに、建物とともに暮らしの文化を守ってきたことへの国からの評価であると私は認識しています。

 かつて京都の街中の各町には町会所ということで、その町内のさまざまな運営のことを相談する空間、建物がありました。矢田町は戦後、町で所有していた土地・建物を手放し、山の懸装(けんそう)とか、ご神体とか、山組みといったものを収蔵する場所を失ってしまいました。その後、杉本家住宅の店の間を町会所代わりとして、7月14日から16日までの3日間、伯牙山のお飾りを毎年行うかたちになっています。

 飾り付けが全て済んだところに、八坂神社から神官がみえておはらいをします。そして、山鉾が街中に飾り付けられることに先駆けて、7月上旬あたりの休日に、各山鉾には厄よけの護符、ちまきがありますが、契約農家さんが、束のかたちで町会所に持ってこられます。それを矢田町の場合は、全部で13000把ほどあるのですが、町内の女性、子どもたち皆で、伯牙山の飾り付けを行います。年に一度ですが、町内の女性が一堂に会することは、現代では非常に少なくなってしまいました。しかし、祭りを通して、町内のコミュニケーションが図られる場が、この杉本家住宅にはあるということです。

 こうした年中の行いを、過去からどのようにして受け継いできたのかということを知る手だてが古文書になります。財団法人では、先ほどお話をした土蔵の中に保存されている三千いくつかの古文書類を、整理、研究しています。

 『歳中覚』と私どもが呼んでいる帳面があるのですが、暮らしの備忘録ということで、これは代々当主が一番暮らしに身近な、手元に近いところで使ってきた古文書の一つです。だいたい170年ほど前に書かれたものが、いま残っています。その中を読んでみると、京都の商家の暮らしぶりは、よく質素・倹約といわれますが、それが食においてどうであったかということが明確に示されています。この帳面には1月から12月まで、いろいろな年中行事を時系列で記されていますが、その記載が始まる表紙からすぐの場所に、年中の決まり事がいくつか書かれています。そこに、「年中平生、朝夕茶漬け香のもの、昼一汁一菜、ただし9月10日より3月2日まで朝茶粥」という記載があります。年中の平生の食については、こういうしきたりだったということです。そして、その右の方に、「毎月十日、二十日、晦日(みそか)、右三度生肴(なまざかな)焼もの、家内中高下なく付候事」とあります。これは、年中平生の朝夕茶漬け香のもの以外に、月十日に一度お昼の一菜にお魚が、家のもの、年功序列関係なく、誰にでも付けられていたということです。本当にお魚が食べられるのは月に三遍だけだったという、倹約した食の在り方が、ここにはっきりと示されています。

 あと行事食について触れますと、お正月は白みそ雑煮です。これも、文字できちんと書かれています。重詰めは貝尽くしの蒔絵のお重ですが、これも、天保12年に書かれた『歳中覚』にお重として書かれて登場するもの、こんにちそのまま残されており、お正月はそのお重でお祝いをしています。

 そして、夏の行事の代表が、祇園祭です。これは晴れの食といっていいと思います。祇園祭というと、いまはハモ祭りとも言いますが、京都の祭りでのすしは、サバずしです。かつては塩サバ、若狭から届いた塩サバを使ってすしをこしらえていました。これは四季を通じて、どのお祭りでもつくられる家庭の晴れの食でありました。そして欠かせないのが、あずきを炊き込んだお赤飯なのです。

 私個人としては、商家の食生活、江戸時代の食の在り方が、現代人にとっていくばくか手本になるのではないかという観点から、『歳中覚』の食を原点とし、京都の伝統食、おばんざいを伝える活動もしています。



小 林

 どうもありがとうございました。私は、もともと京都の人間ではないので、京都という場所の非常に懐かしいようなお話を伺えたような気がしました。

 大事なことは、文化財といったときに、建物を物理的にというか、形として保存することだけが意図ではなく、その中に暮らしている人たちの暮らしぶりも継承していくということが重要だと思いました。

 民俗学者の柳田国男は、民俗学の研究対象とするものには、体碑、つまり視覚的なもの、例えば建物とか民具、それから口碑、聴覚的なもので、昔話のような言い伝えというのがあり、最後に、心碑というもの、それはその土地の人々の精神性、内面性のことで、言葉で表現できない感覚的なものなのですが、それが民俗学の研究で最も難しいが、一番大事なことだと言っています。いまのお話を伺っていると、そのように、ある精神性を非常に大事にしていくことがとてもよく感じられました。

 これで3人のお話を終わりましたが、お互いのプレゼンテーションの中で、何かご意見、ご質問とかお聞きになりたいことはありませんか。



天 野

 いまの杉本さんのお話を伺っていて、なさっていることが単に古い建物の保存ではないということがよく分かりました。まさに、"生きた美術館"、"生きた博物館"ということなのですね。先ほど杉本さんは、ご自分は主に継承の方だとおっしゃいましたが、そこにはやはり創造も含まれているわけです。今年の2月ごろに杉本家住宅で、江戸時代に京都で盛んに行われていた謡講というものがあったので、私は初めて参加したのですが、あれなどは創造のよい例だと思います。



杉 本

 謡講は、いろいろな町家を巡りながら開かれる催しですが、そこでも復曲というか、復活させたものを題材にしている場合もあります。そうした活動の舞台として、京町家に目を付け、使っていただくということ、またそうした機会を持つということは、京町家を守っていくと同時に、いろいろな方に知っていただく機会にもなり、京町家と謡の文化的な接点みたいなことも、あらためていろいろな方に知っていただける機会になっているのだろうと思っています。

 私は謡講で初めて知ったのですが、宴席とかでよく盛り上がったときに、「よっ」と声を掛けますよね。あれは謡講の最後の締めのときに、拍手をしないで、「よっ」という掛け声で締めくくる、よかったよ、という意志を、見ている人が発声するということがその始まりだそうです。そのように、知らぬままになっていることも、この京町家の場で発見されていくということも、非常に楽しいと思っています。



小 林

 天野さんは、謡講に参加されていかがでしたか。謡講の面白さとか、新鮮さとか。



天 野

 それはもう、文句なしに新鮮でした。能と違い謡を聞くだけなのです。しかも、間に屏風が立てられていて、謡手の姿が見えないのです。ですから、純粋に声を聞くかたちになっているのです。ほぼ2時間でしたが、まったく退屈しませんでした。謡のあの難しい文句が、本当に肺腑に染み込むような、そういう体験をしました。



小 林

 つまり、謡が言葉としてちゃんと生きている、ということですね。演劇のためのせりふではない。



天 野

 もちろん生きています。しかし、それをわれわれ受け取る側が生かすことがまた求められていると思います。



小 林

 天野さんが、先ほど復曲の話をされていて、演じ手の側が現代劇と同じようなプロセスを経てつくり出していくところに大事なポイントがあるのだとおっしゃっていたのですが、復曲と新作能とを一緒にしてはいけないのかもしれませんが、いわゆる新しい能作品は、なかなか再演が難しいと伺ったことがあるのですが、その辺りのところはいかがですか。



天 野

 確かに最近、新作は盛んです。現代の人が新しい能をつくる。それと並んで、復活上演、復曲というのがあります。実際、復曲の方が再演の度合いは高いのです。それに比べて、新作は再演されることはきわめてまれです。珍しさという刺激があることはひとつの意義ですが、それ以上の意義はどうか、というのが私の新作に対する考え方です。

 それに比べると、復曲というのは、昔の作品ですから、そこにいろいろな発見があると思います。しかし、最近の傾向としては、なぜこんなに好まれるのかと思うくらい、新作の方が圧倒的に多いようですね。しかし、それは1回きりの上演です。



小 林

 分かりました。いまは能の話でしたが、下出さんは、先ほどの"復元的"という作業で、ある意味、新しいものを現代によみがえらせるかたちでつくられていますが、蒔絵という技術を、具体的にいうと、携帯電話のケースであるとか、新しいものに応用していくお考えとか、実際の活動はございますか。



下 出

 いまおっしゃった携帯電話のケースは、ほとんど受注生産ですが、今現在工房でつくっています。そういった、さまざまな取組もしています。

 先ほどの杉本さんのお話でもありましたが、伝統的な町家建築も、現代生活で生かされてはじめて価値があるのではないかと思います。蒔絵技術は1200年、京都の地で伝わってきており、私も、科学的な調査と研究は進めていますが、それは美術館、博物館のガラスの向こう側の話であります。私は、その時代のものをくみ取ったなら、それらの知恵を現代生活に生かして、明日を切り開いていく糧にしないといけないのではないか、携帯電話のケースがいいかどうかは別にして、現代生活の中に活用し、未来に続けられるような在り方がないものかと考えています。



天 野

 蒔絵のお話を伺っていて思ったことがあります。下出さんは先ほど「復元的」とおっしゃっていたのですが、それは能の復活上演も同じで、「復元」ではないのです。つまり、あくまでも現在の技法による復元なのです。だから謡い方は現在の謡い方ですし、演技も現在の演技です。厳密にいうとテキストぐらいが古いものであり、それ以外のものはほとんど現在のものなのです。ですから、完全な復元は、能の場合は無理だと思います。そういうことを先ほどお話を伺っていて考えていました。

 それに関連しての質問ですが、能の復活上演の場合、復曲に関わった役者にとって、それが刺激になり、通常の能を演じる場合に、大変良い影響を与えていると思うのですが、下出さんの場合にも、復元的な制作の作業をすることによって、それ以外の、あるいは本来の制作家としてのお仕事に、かなりよい影響があるのではないかと思うのですが、その辺はいかがでしょう。



下 出

 漆の技術は非常に古くからあり、乾かせ方とか、蒔き方、研ぎ方、磨き方が決まっているものですが、それを現代的な生活の様式の中で制作するということにおいては、現代に生活している私たち全員が刺激を受けています。

 実は私は新しいものを制作したくて、日展の方に24年間ずっと出品してきて、類型のないものを追い求めてきました。これまで、いろいろな素材も見てきたのですが、ここへ来て原点というか古いものを検証してまわっています。

 それにより、各時代のさまざまな工夫とか、知恵というものをくみ上げ、それを学術的にこうだったよということで学会発表することも大事に考えていますし、現代生活にいかに生かせることができるかということ、どちらかというと産業的にどういう活性化が目指せるかということをも考えています。

 こういう活動をとおして、若い人を惹き付け、継承し、また新しい血を入れることによる新しい発想が欲しいと考えています。ご指摘のとおり、復元的な制作から多分に刺激的な影響を受けております。



小 林

 私はそれを伺っていて、化学的な技術というか、分析技術、そういったものの進歩が前提にあって、それが進めば、さらに蒔絵の制作の方までいい影響がでるのではないかなと思うのですが。



下 出

 その通りだと思います。それに加えて、いま私のかかわる大学では、文化財の修理に興味を持っている若い子たちが多くいます。そういったことにも、非常にいい影響を与えられます。

 各時代の工夫を明らかにしていき、それを大事にしたいという心持ちが、いまの若い子たちのなかに育っているということを、ある意味で驚きながらもうれしく思っています。



小 林

 若い子たちというお話がありましたが、杉本家保存会の皆さまが、例えば家の中で、先ほどの町衆文化とかを継承するというのはよく分かります。ただ、具体的にどういうふうに継承していったらいいのか、あるいは料理についても、技術的な問題なども当然あると思うのですが、そういうものをどのように伝え、広めていくようになさっているのでしょうか。



杉 本

 伝統ということで言うと、下出さんの伝統的な工芸品をつくっていく技術・技法というのは、新しいことをいま生きているものがやっていくのと同時に、伝統的な技術を復元していくこともあると思うのですが、 京町家の中での暮らしというものは、お手本があるようでないということがあります。先ほど、当家に残る『歳中覚』という古文書のお話をしましたが、あの古文書も、中に書かれていることの書き換えが、昭和以降はありません。つまり、そのまま継承されているということなのですが、こんにちに至るまでのところでは、非常に多くの上書きであるとか、訂正が残されているのです。それは、時代の変遷によるところもあれば、家族構成の変化といったことにより、いくたびも修正が施されています。

 それを見ていると、伝統というのは、ある程度古いものをそのまま継承していく、そのかたちをそのまま現代に伝えていく、ということのように思われがちなのですが、実はそうではなく、リアルなその時代時代の進行形なのです。それがある意味、革新という言葉でいわれる場合もあるし、それが積み重なっていくことを伝統と言うのだろうと思うことがあります。

 ですから、私たちも、古文書に残されていることについては、できる限り過去に先祖が行っていたとおり、それに倣って行う。そういうつもりもあるのですが、『歳中覚』にある先祖の書き付けを見ていると、伝統というふうに、いま語られていることであっても、何も昔のことだけにとらわれることはないだろうということを検証しながら感じています。



小 林

 たぶん、『歳中覚』に書き付けをされていた時代の方々は、それを継承していこうという意図もあまりなかったのでしょう。



杉 本

 ただ、書いていた時代というのは、例年どおりのことを毎年変わりなく続けていこうという意志が大変強かっただろうとは思います。



小 林

 継続が非常に重要だということですね。



天 野

 いま大変重要な話題に差し掛かってきた感じがします。私も同感なのですが、いまのお話は、伝統は決して変わらないものではない、変わっていく面が多いのだということだと思うのです。その部分を、われわれはもう少し認識してもいいのではないかと思います。

 私の専門の能でいえば、例えばいまの能は決して昔の能のままではありません。あらゆる面で変わってきているのです。その一つがテンポです。皆さんはずっと『安宅』が600年間も同じテンポで演じられてきたと思いますか。実はそうではないのです。世阿弥時代は、いまの3分の1ぐらいの速さで終わっているのです。ちょっと信じ難い話ですが、だんだん延びてきているのです。能特有のテンポですらそのように変わってきているのです。

 今日演じられた『安宅』で言えば、今回は舞囃子でしたから義経は出てきませんでしたが、実際には義経が出ます。義経はいまは、子方といって7、8歳の少年役者が扮するのですが、古い資料を見ていると、昔は18、19歳ぐらいの青年が演じているのです。それはそうですよね。だって、義経ですから。頼朝に追われて北国へ逃げていくわけですから、歴史的には37歳でも義経なのです。それを能だから子方がやるのだという見方が定着していますが、そうではないわけです。変わってきているのです。

 そういうことを考えると、伝統は絶対不変ではない。そうすると、何か変わらないものがあるのかということが問題になってきます。漆でいえば、材料と技法はたぶん変わらないであろう。それでも先ほどは変わっているというお話でしたが。能でいえば、音楽的な面と、舞踊的な面、面を着ける演劇、そういうことは変わっていないと思いますが、それ以外はほとんど変わっているように思うのです。

 ですから、なおさら変わっていないものは本当にあるのだろうかという疑問が出てくるのです。そんなことを今回あらためて考えさせられました。



下 出

 先ほどのお話でありました、新作能が再演されない、なかなか定着しないというのは、どういう理由が考えられるのでしょうか。



天 野

 一言で言えば深さがないのだと思います1回目は珍しいということで関心を持たれますがね。しかし、1回でいいということは、深さがないのです。1回見れば、それでいいということです。狂言でも、きのう見た同じ狂言を今日見ても、また笑ってしまいます。それは単なるおかしい珍しさではないからです。もっと深い何かによってわれわれは笑ってしまうのだと思うのです。そういうものが古典にはあるのですが、新作にはそれがないのだと思います。



下 出

 私が携わる漆の仕事でいうと、新しいものは、残念ながら昔からの天然のものを利用したものではなく、合成塗料であるとか、蒔絵にしても手で描くものではなく、印刷技術であるとか、シルクスクリーンとかいうものに取って代わられてしまい、先ほどご紹介させていただいたように、わずか数十年で生産額が3分の1以下に減ってしまう危機的状態にあります。

 ただ、そこに内包されている知恵とか培われてきた文化、そういったものの深みは膨大にあるはずなのですが。現代生活の中でその深みを提供できるようなアイテムが上手に提供できていないのかなと、今日のお話を伺いながら思いました。



小 林

 新しいところと、継承しているところの接点を見いだすのは、難しいところがありますね。能の新作の場合は、要するに面白くないということに尽きるのかもしれない、という印象がないわけではないのですが、 歌舞伎、あるいは落語の新作は意外とされているのです。というのは、演者本位の作品が多いので、その演者が現存している限り、歌舞伎でも、落語でもわりとやられている。でも、その後がどうなるかというのは分からないところがありますが。



天 野

 落語も歌舞伎も、たぶん古典ではない面を持っていると思います。つまり、落語は現代の芸能であり、歌舞伎は現代劇なのです。だから新作が多い。かつまた、十分に面白いのではないかと思います。



小 林

 そういった部分もあるかもしれませんね。



天 野

 変化ということに少し関係があるのですが、江戸時代後期の観世大夫だった元章の話をさせていただきます。

 明和2年、ちょうど杉本家ができたころだと思うのですが、彼は観世流の15世の大夫、いまの家元の観世清和氏は26世ですが、能において大変な改革をした人です。

 明和本という新しい謡本を発行したのですが、それまでの文句をずいぶん変えているのです。200番余りを。なぜ変えたかというと、いままでのものには間違いが多かった。惰性で謡っているけれども間違いが多く、それを直さなければいけないというのが一つ。

 それからもう一つは、能はその時代に合わせるべきだと。時代に合わなくなっている面があるから合わせるべきだと。これは世阿弥が主張していることで、元章は世阿弥に学んだのです。主にその二つの理由から大改訂を施して、観世流の能の文句をかなり大幅に変えてしまったのです。それで、ほぼ10年間、観世流の能はその変更された文句で上演されてきたのですが、彼が亡くなったらすぐにまた元に戻ったのです。

 また、彼は文句も変えましたが、演出も変えたのです。間(アイ)狂言まで変えたのです。そういうことをした人物だったのですが、その評判はよくなかった。演ずる役者にしたら大変迷惑な話で、せっかく覚えた文句が随所で違うわけです。結果だけを見れば、今からみても、彼のしたことはやはり評価することはできませんが、その姿勢は、現在のわれわれが学んでもいいのではないかと思っています。ですから、先ほど紹介した復曲の仕事も、おこがましいのですが、姿勢としては元章と同じようなものと自分では思っています。



小 林

 この時代には、例えばいまの天野さんみたいな方はいなかったわけですから、能楽師自身が改訂、改良しなければならなかったのですね。



天 野

 この時代はそうですね。ですから、役者本人が変えたのです。たぶん彼が中心だったと思いますが、徳川家の一族である田安宗武がパトロンだったのですが、田安宗武などもずいぶん関わったようです。当時の学問を踏まえて改訂作業が行われたのです。

 『采女』などという能は3分の2ぐらいに短くなっているのです。本来の『采女』は主題が捉えにくく、かなり複雑なのですが、それを元章は非常にすっきりとして、分かりやすい。その演出はいまの観世流に「美奈穂之伝」として残っています。采女という帝に仕えた女性の悲劇が非常に全面に出てくるかたちになっていて、大変分かりやすいのです。『采女』は「美奈穂之伝」という小書(こがき)でよく上演されます。本来のかたちには、現代人には分かりにくいところがある。元章はそういうところに着目してカットしたのです。



小 林

 彼が亡くなった後は、ほとんど戻ってしまったのですか。



天 野

 はい。ただ、演出は多く残ったのです。観世流の演出、特に特殊演出は小書というのですが、さきほど舞囃子で舞われた『安宅』にもたくさんの小書があります。小書は観世流がほかの4流にくらべて圧倒的に多く、450ぐらいあります。その次に多いのが金剛流で、その半分ぐらいの200余りです。残りの3流はだいたい100前後です。観世流が多いのは、元章が小書を量産したからです。「何とかの伝」と「伝」が付いているものは、ほとんど元章が作ったもののようです。

 元章が亡くなった後に残ったものに、『翁』の冒頭、「とうとうたらりたらりら」という文句があります。これは金剛流でも同じ文句ですが、金春、喜多の2流は、「どうどうたらり」、宝生は「とうどうたらり」です。実は、観世流でも、元章の直前までは、「どうどうたらりたらりら」と濁音で謡っていたのです。それが本来のかたちだったのです。それを元章が「どうどう」という濁音を嫌ったのでしょう、「とうとう」の方がいいと。それが今に残ったのです。元章が亡くなったあと、彼が変えた能の文句はほとんどが元に戻ったのに、『翁』の「とうとうたらり」は元章の改訂版が残ったのです。いまの日本では、能のことを多少は知っている人の多くは「とうとうたらり」は『翁』を象徴する言葉、あるいは能を象徴する言葉だと思われているのですが、実はそうではなく、元章の遺産なのです。こういう例もあります。



小 林

 冒頭に天野さんが言われたように、継承と創造とが別々にあったり、あるいは別の作業としてあるわけではなく、継承の中に創造は必然的に伴うものだし、同時に創造するのも何らかのかたちで、結果として継承していかざるを得ないところがあり、その両方が車の両輪のようになって進んでいくことにより伝統となる。そういう見解で皆一致したのではないかと思います。

 そろそろ時間となりましたので、シンポジウム「"伝統"の継承と創造」を終わらせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。

(終 了)


写真提供:京都新聞社








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