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趣旨説明 |
「国家戦略としての京都創生」の取組について |
京都市総合企画局政策企画室 京都創生推進部長 大田 泰介 本日は第13回京都創生連続セミナーを開催いたましたところ、大変寒い中にもかかわらず、このように多くのみなさまにお集まりいただきまして、ありがとうございます。心から御礼申し上げます。 さて、このセミナーは、私ども京都市のほかに京都府、京都商工会議所、京都新聞社、それから事務局を務めていただいております京都文化交流コンベンションビューローといった、約500にのぼる多彩な企業、団体、個人のみなさまにご参画いただいております京都創生推進フォーラムが中心となって開催しているものです。 本日は、「京都のお座敷音楽の魅力〜地歌・箏曲の楽しみ〜」と題しまして、京都にゆかりの深い地歌、箏曲につきまして、その歴史や魅力について、先生方に解説と実演を行っていただきます。 その前に、京都市が進めております「国家戦略としての京都創生」の取組につきまして、簡単に説明を申し上げます。 京都創生とは、京都の持つ「山紫水明」と呼ばれる自然ですとか、落ち着いた都市景観、また、このような風土に育まれ、受け継がれてきた伝統文化、伝統工芸などを守り育て、さらに磨きをかけて、国内外のみなさまに発信していく取組です。 この京都創生は、もちろん市民のみなさまと京都市とが手を携えて進めていく必要がありますが、国家的見地から取組を進めていく必要があるものについては、京都創生をわが国の国家戦略と位置づけ、必要となる制度的、財政的な支援を行うことを国に求めています。 例えば、京都市は一昨年から、みなさまにもご協力をいただきまして、「新景観政策」をスタートさせ、景観を守るための取組を進めています。京都らしい景観を形作る京町家は、今から11年前の平成10年には、上京、中京、下京、東山の都心4区で、約2万8千軒あったという調査結果がありますが、その後、だいたい年2パーセントずつ無くなっているという状況です。 やはり京町家に住み続けるというのは大変だと思いますし、傷んでまいりますと、様々に手を加える必要がある、そのような経済的な負担も大きく、京都市としても、京町家を守るため、条例をつくったり、あるいは改修の助成を行うなど、努力をしているところです。 また、京町家を守るに当たって、もう一つ大きな問題があります。それは市民のみなさまや京都市の力だけでは解決できない法規制の問題です。 みなさまもご承知のとおり、建物を建てるときには「建築基準法」の規制がかかります。この「建築基準法」の規制ができる前に京町家は建てられていますので、今の規制に適合しているわけではありません。 従いまして、京町家を大きく改修する場合、その時点で「建築基準法」の適用対象になり、今と同じような、伝統的な京町家を建て直すことができません。 このような状況を改善していくために、「建築基準法」を一律に日本全国の建物に適用するのではなく、京町家なら京町家といった京都の特性に合ったかたちで適用していただけないかということを、国に求めています。 また文化財に関しましても、世界遺産が京都市内だけで14カ所、そのほか国宝、重要文化財など大変多くの文化財がありますが、これを守っていくということも、このままでは難しい状況です。 こういったものを守っていくために、市民のみなさまと京都市とが力を合わせて取り組んでいきたい、これからも進めていきたいと考えていますが、一つの自治体だけで取り組むには限界がありますので、国レベルでも、日本文化の問題としてしっかり考えていただく必要があると考えています。 国内外の観光客のみなさまが大勢京都におみえになり、京都の持つ魅力を享受されます。そういうことから考えますと、京都は市民だけのものではなく、京都を訪れるみなさまのものでもあります。また、京都だけの力で守れるものでもありません。 従って、市民のみならず、国、あるいは京都以外にいらっしゃる京都ファンのみなさまにも、ぜひお力添えをいただいて、京都の保存に、ご理解とご協力をいただくことが、「国家戦略としての京都創生」の意義であると思っています。 国の財政も厳しく、京都を守ってくださいと言っても、「はい、そうですか」という時代ではありませんので、このような京都の取組をご理解いただくために、京都にお越しになる国内外のみなさまに、日本に京都があってよかった、また世界に京都があってよかったという思いを抱いていただけるよう、市民のみなさまと京都市とで取り組んでまいりたいと考えております。 本日、ここにお集まりのみなさまにおかれましても、本日のセミナーを契機に、京都の新しい魅力に気づいていただき、また身近な方々にも、この取組をお話いただき、「国家戦略としての京都創生」の取組につきまして、さらなるご理解をいただければ幸いに存じます。 みなさま方のより一層のご支援とご理解とご協力をお願い申し上げまして、私からのごあいさつと、「国家戦略としての京都創生」の趣旨説明とさせていただきます。 |
講 演 |
京都のお座敷音楽の魅力 〜地歌・筝曲の楽しみ〜 | |||||
ルーツ
ヨーロッパの芸術音楽の代表的な弦楽器は、バイオリン、チェロ、コントラバスなど弓で弦をこすって音を出すのに対して日本の伝統的芸術音楽では、筝(こと)、琵琶、三味線など弦をはじく撥弦(はつげん)楽器が主体です。それは、音色に対する感覚の民族性の違いかもしれません。来年奈良は遷都1300年ですが、箏や琵琶は当時、唐から入ってきて、ほぼそのまままの形で現在に伝わっています。それらのルーツは東アジアや中近東に求められます。 三味線もルーツは同じですが、その起源については諸説あります。最も流布している説では、中国から琉球に伝わった蛇皮の三弦が三線(さんしん)として愛用され、それが室町末期の1560年代に一大貿易港であった大坂の堺に伝来。平家物語を語る盲目の法師が最初に手にして琵琶の撥で弾き、改良したのが今の三味線の原型とされています。特に琵琶法師の職能集団でも高い地位にあった石村検校(いしむらけんぎょう)は、基本的な奏法を考案して、当時の流行歌(はやりうた)を組み合わせて三味線に乗せて弾き歌う「本手」と呼ばれる基本の7曲を作曲して、三味線音楽の成立に大きく貢献しました。これが、上方の土地で生まれ育った「三味線で弾き歌う歌曲」としての「地歌」の始まりで、三味線音楽中最古のジャンルです。 なお、本日のタイトルにあります「お座敷音楽」とは、歌舞伎や文楽などのように、劇場で演奏される音楽ではなく、畳の部屋でお酒や料理を楽しみながら、今で言うカラオケのように人々に愛された音楽です。ひととき、その洗練された、はんありとした情趣をお楽しみ下さい。 地歌三味線について
当初は伝来したまま、ニシキヘビの皮の三線を琵琶のバチで演奏していましたが、皮が破れた後は、張り替えるにも、内陸部には大きな蛇が存在しません。そこで多くの動物の皮を試行錯誤した結果、ネコの皮がもっとも適しているという結論に至りました。ネコは放し飼いがほとんどですから皮膚に傷が付くことが多く、小型ですので高価になります。そこで、丈夫でネコよりも大きいヌの皮も代用されるようになりました。最近では裏面だけイヌを張る例も多く、稽古用の三味線や激しく皮面にバチが当たる津軽三味線などは。両面ともイヌを張っています。ちなみに鼓はウマ、太鼓のほとんどはウシを使います。食生活もそうですが音楽も、多くの犠牲の上に成り立っていることを、いつも心に留め置きたいものです。 当初の三味線のかたちを今に最も忠実に残しているのが、柳川検校(やながわけんぎょう)の名にちなむ、柳川三味線です。この三味線は胴が小振りで、棹(さお)も細く。バチも小さく薄いのが特徴で、現在は京都でしか伝承されていません。地元の人でも聞く機会の少ない貴重な楽器です。見た目と違って、低音が生きた奥の深い音色が出ます。これに対して、一般に使われている地歌三味線が九州の長谷幸輝とその弟子川瀬里子によって大型に改良されましたので、「九州三味線」と呼ばれています。 三味線組歌『飛騨組』
石村検校によって作られた最古の地歌の「本手組」は、孫弟子の柳川検校によって、拡大発展しました。「本来の手法」を「破る手法」を加えた新曲も発表され、これを「破手組」と呼びました。この言葉は現在、服装や行動が華やかで人目を惹く意味の「派手」の語源です。柳川検校とほぼ同時期の八橋検校は、雅楽の箏の歌物を取り入れた寺院箏曲から発展した「筑紫箏(つくしごと)」を参考に、当道座にも箏曲を取り入れて、弾き謡の歌曲「箏組歌」と箏だけで弾く「六段」や「みだれ」といった作品を作りました。以来、地歌と箏曲は一緒に伝承されていくことになります。 先ずは、京都にしかない柳川三味線で、最古の地歌「本手組」の中の「飛騨組ひんだぐみ」という曲を実際にお聞き頂きましょう。曲の名前は、当時民間で流行していた「飛騨(ひんだ)踊り」という踊り歌の歌詞が組み込まれていることに由来します。柳川三味線では、「胴にバチがぶつかないように、粉を練るように弾く」という口伝があります。 三味線を弾く際の楽譜は一応ありますが、多くは「ちんとんしゃん」や「とっちりちん」といった音色を真似た「口三味線」で、口承伝承で伝えられてきました。「ぺんぺん」は下手な三味線弾きが出す音の模倣ですが、ナズナの別名を「ペンペン草」と呼ぶのは、三味線バチのような三角形の実を付けるからです。 上流階級から庶民へ 江戸時代になるまでは、貴族や武士といった身分に、よって演じたり、楽しんだりする音楽が限定されていましたので、庶民が扱える楽器といえば、太鼓などの打楽器か、竹製の笛くらいしかありませんでした。 ところが、1603年に出雲阿国が北野天満宮に舞台を設けた阿国歌舞伎が大反響を呼び、遊女たちによって演じられるようになりますと、新舶載の三味線が採用され、人々の心を虜にし、血をたぎらせました。 当道座の音楽家たちも地歌や箏曲を貴人の屋敷や宴席に招かれて演奏するようになり、やがては、当道座の人たてや遊女だけではなく、一般の人々も聞くだけでなく自らも演奏するようになり、三味線音楽は娯楽と共として、また、社交の潤滑油として、急速に普及していきました。 本格的な芝居や舞踊にも採用され、長唄や、三味線伴奏で物語を語る各種の浄瑠璃もさかんになります。芝居音楽として人気のあった曲は、お座敷でも楽しまれル用になりました。そうした作品の一つ、『狐会(こんかい)』をお聞き頂きましょう。これは、元禄時代、祗園にあったお茶屋・井筒の主人で、舎、弥山の名人・岸野次郎三の作曲です。彼は大石内蔵助とも親交があったことでも知られています。 このころは舞台音楽をお座敷で楽しむだけではなく、お座敷での楽しむための作品も数多く生まれました。物語性のある「長歌物(ながうたもの)」や洒落た小品の「端歌物(はうたもの)」等が次々に誕生し、さながら、現在の歌謡曲のように生まれては消えていきました。処武士や文人、商人から芸妓に至るまで、作詞をしています。そして、一般の人々のために、平仮名で書かれた挿絵入りの歌詞集が次々に出版され、改訂増補されています。その文化度の高さ、識字率の高さに驚嘆するばかりです。 端歌物『小簾の戸』
このように、市井の人々人が、家庭や宴席の座敷で楽しめる小曲は「端歌(はうた)物」と呼ばれ、かなり自由に創作されました。そこには、遊び心もあり、古歌を踏まえて、熱い恋心を綴った曲もありますし、遊女のやるせない悲しみや、庶民の心の悩み、あるいは四季折々の風物などを盛り込んだ歌詞もたくさんあります。情感たっぷりに歌われる少し色っぽい内容のものもありますが、いずれも大変上品に綴られています。 こうした端歌物には好んで舞はつけられます。これらは。座敷舞とか上方舞、地歌舞などといわれるもので、井上流で有名な京舞もその一つです。社交のための宴席で舞われますので、ほこりが立たないよう、畳半畳ほどのど小さな空間で舞います。京人形のような姿で、あらゆるゆる感情を凝縮して内秘めますので、動きは少ないですが、大きなエネルギーが必要とされます。
端歌物の一例として「小簾(こす)の戸」をお聞き頂きます。作詞は祇園の芸奴、ノブさんが40歳のころ大坂の島の内の座敷に出ていたときに、有名な作曲家の峰崎勾当(みねざきこうとう)と出会ったことで誕生した曲です。 「小簾の戸」とは「すだれの戸で囲った中側」のことで、かなり濃密な密室を意味しています。艶ややかでしみじみとした旋律と、余韻のある歌詞からは、夏の夜の淡い恋が絵画のごとく読み取れて、聞く人を魅了します。 端歌物『東山』 「地歌」は、上方(都・大坂)を中心に育まれた弾き歌いによる歌曲ですが、江戸へも伝わって、新たにさまざまの小粋な作品が生まれました。今度はそれえらが、逆に上方の地にもたれされて、「江戸歌」と呼ばれるようになりました。それら江戸歌に対して、もともと地元で生まれ育った歌曲を「地歌」と呼ぶようになりました。「地酒」や「地ビール」と同じような呼称です。また、特に色町で好まれた地歌の端歌物を江戸歌に対して、特に「上方歌」とも呼びました。 「東山」は、その名のとおり京都東山連峰を歌った曲です。作曲は鶴岡検校(つるおかけんぎょう)。現在の京都府立盲学校の前身であり、日本初の盲学校・京都盲唖院の設立に尽力した当道座の専門家です。作詞は、日本初の正統的歴史書「日本外史」の著者で名高い頼山陽(らいさんよう)の手によるものです。頼山陽は鴨川沿いに「山紫水明処」という書斎を持ち、「日本外史」の執筆に専念したとのことです。東山のふもとに位置する知恩院を主題にした歌詞と、すがすがしい高音からなる歌で、まさに山紫水明、風光明媚な都の景色が描かれていますが、その中に、この界隈で働く女性のままならない心情が見事に歌い込まれています。 打合物『打盤・横槌』 「打合(うちあわせ)物」は、異なる曲を2人で同時に演奏する、専門家たちが遊び心を盛り込みながらも、腕磨きが出来るようにと作った曲です。相手の演奏に合わせて片方が別の曲を引きずられないように演奏します。 歌詞も所々韻律が揃えられていて、お互いの歌声が重なり合い、独奏では出せない微妙なハーモニーを味わうことが出来、現代の作曲家から見ても驚くほど計算され尽くした作品に仕上がっています。今でいうコラボレーション的な演奏法ですが、こうした演奏法の他にも、同じ曲を弾いていても、上位の人が、様々な手法で即興的な「入れ手」をすることもあります。 一例に、京都をテーマにした「打盤(うちばん)」と「横槌(よこづち)」をお聞きいただきます。 どちらの曲も作曲は「東山」の作曲者・鶴岡検校の弟子、幾山検校(いくやまけんぎょう)で、明治15年、京都盲唖院箏曲科の顧問に就任した人です。作詞は、惺園篁鳳(せいえんこうほう)と号した文人で、「打盤」の方は、「北時雨、小原の里に聞き馴れし、フクロウの鳥の宵だくみ〜」と始まります。一方、「横槌」の方は「横槌は、もしやとばかり合槌が、逢ひに来るかと棚の端〜」と歌います。 「打盤」は「砧(きぬた)」ともいわれる木製の台で、洗濯の時には、布を載せて木製の横槌でとんとんと打って衣類のしわを伸ばしたり、汚れを落としたりしました。打盤と横槌を男女のペアになぞらえて、口論から仲直りに至る恋人同士の様子を歌っています。歌詞に出てくるフクロウは、鳴き声が「糊(のり)つけ干せ、糊つけ干せ」と聞こえることで、精を出して仕事をしろという意味を重ねています。 箏曲古今組『秋の曲』 「三味線組歌」が成立したころは上流階級の占有楽器だった筝を、八橋検校(やつはしけんぎょう)が筝の「組歌」や、「六段調」「八段調」「みだれ」といった現在でも広く演奏されていま「段物」の器楽曲を作曲して、当道座に箏を導入しました。以来、箏は三味線と共に庶民でも親しめる楽器となりました。三味線の「組歌」は、流行歌を取り入れていますので、俗語が数多く使われていて、庶民的な雰囲気がありますが、筝の「組歌」は、本来、楽器自体が高貴な人々の占有物であったものなので、歌詞も、王朝文学や和歌を踏まえた上品な内容となっています。そういう背景がありますので、箏の新作も、幕末までは「組歌」と「段物」以外に無く、それ以外の箏の楽しみ方は、もっぱら、次々に作られる人気のある地歌の曲に会わせて、その旋律路なぞるように装飾することでした。 しかし、幕末になり、光崎検校(みつざき)検校や吉沢(よしざわ)検校が。純箏曲の良さを復活させようと、復古運動を起こしました。光崎検校は古典の地歌も見直しつつ、「ご段砧」や「秋風の曲」といった]新しい箏曲を発表。名古屋で活躍していました吉沢検校は、八橋検校の創始した「箏組歌」を生かした新傾向の組歌を作りました。その歌詞は『古今和歌集』に求めましたので、その作品群を「古今組(こきんぐみ)」と呼んでいます。さらに、吉沢検校は雅楽にも精通していましたので、箏の調弦に雅楽風な味わいを導入して、新たに「古今調子」という雅俗折衷の調弦を編み出しました。 最後には、この古今組から、「秋の曲」を演奏して頂きすが、この曲の普及にも、京都の松阪春栄(はるえい)の功績があるのです。それは、箏組歌には無かった、筝の音色だけを聞かせる長い間奏部の「手事(でごと)」を加えたことです。この「手事入り」は大歓迎され、一躍人気曲になりました。吉沢検校も晩年は京都に移り住み、京都で生涯を終えています。 |