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趣旨説明 |
「国家戦略としての京都創生」の取組について |
京都市総合企画局政策企画室 京都創生推進部長 ただいまご紹介いただきました、京都市京都創生推進部長の西野でございます。本日は多くの皆様に御参加いただきまして、誠にありがとうございます。 このセミナーは、市民の皆様に京都創生の取組をより知っていただきたい、そして、皆様一緒に、自分にできることに何があるだろうかということを考えていきたいという趣旨で実施しています。 今回は講師として、茶道千家十職の釜師、大西家第16代当主で、京都創生百人委員会の委員でもいらっしゃる大西清右衛門さんをお迎えし、茶の湯釜の世界の魅力を、400年の伝統と技を継承する作り手の立場からお話しいただきますが、その前に、京都創生の取組について、簡単に御報告させていただきます。 ご存じのとおり、歴史都市、京都が誇る自然、都市景観、伝統文化などは、世界の宝、日本の貴重な財産です。これらを守り、育て、そして未来へ引き継いでいくために、京都市では、全国に先駆けてさまざまな挑戦的な取組を、大きく三つの分野、つまり、景観・文化・観光の分野にわたって進めています。 まず、景観分野ですが、平成19年から、市民の皆様の多大な御協力をいただきながら、全国で最も厳しいといわれる建物高さ規制をはじめとする、新景観政策を実施しています。最近では、屋外広告物について、条例の基準に違反した状態にあるものを、全てなくしていこうという取組を強化しているところです。 また、京町家を守るための京都市独自の制度として、平成17年に、京町家まちづくりファンドを設け、改修に要する費用を助成するなど、さまざまな取組を進めています。 次に文化分野ですが、市内14カ所の世界遺産をはじめ、全国の約19%が集まる国宝、約15%が集まる重要文化財など、歴史的文化的資産の保存継承を進めております。 観光分野では、外国人観光客や国際会議の誘致などに積極的に取り組んでいます。 しかしながら、京都だけがいくら努力しても解決できない課題が数多くあります。まず、景観分野です。京町家についてですが、現在、市内に約4万8千軒残っているといわれていますが、相続税や維持管理の問題などがあり、継承することが難しいケースも多く、毎年約2%が消失している状況です。 また、建築基準法ができる前に建てられた建物なので、増築したりする場合、今の法律の基準に合わせたものに改める必要があるということになり、伝統的な意匠、形態を保てないという課題があります。 無電柱化についてですが、電線や電柱のない美しい町並み景観を作り出していくためには、1キロメートル当たり約7億円という巨額の費用負担が必要になるという問題があります。歴史都市であるパリやロンドンといったところでは、無電柱化の達成率が既に100%に達しています。一方、京都市内では、歴史的な景観に配慮すべき地域を含む重点整備対象区域がありますが、その区域に限ってもまだ,7%程度しか無電柱化が済んでいません。いまのペースで無電柱化の取組を推進していくと、あと70年以上かかってしまう状況です。 文化分野についてですが、京都には伝統芸能、伝統文化や伝統産業など、ほかの都市にはない独自のものが数多く受け継がれています。しかし、担い手の高齢化や後継者の不足、そして、伝統芸能を鑑賞する方や、暮らしの文化に触れる方が減ってきたり、伝統工芸品へのニーズが少なくなってきたりしたために、危機的な状況にあるものも少なくありません。 このように、日本の原点ともいえる京都の景観・文化は、担い手の方、所有者の方だけに任せていたのでは、なかなか守っていけないという面があり、まさに一刻の猶予も許されない状況にあります。 そのために、これらを保全、再生して積極的に活用していくためには、国による支援が何としても必要になります。そこで「国家戦略としての京都創生」という考え方が必要になります。この考え方のポイントは、京都を国を挙げて再生し活用するということで、京都創生を国の戦略としてしっかりと位置付けていただくというところにあります。この考え方による取組は、梅原猛先生に取りまとめていただいた提言を受けてスタートしています。 京都市では、「国家戦略としての京都創生」の実現に向けて三つの柱、すなわち、国への働き掛け、市民の自主的な活動を支援する取組、そして京都創生のPR、を軸に取組を進めています。 特に一つ目の国への働き掛けが最も重要であり、制度面、税や財政面で京都の抱える課題の解決につながるように、毎年機会を捉えて国に提案、要望を行っています。また、国の関係省庁や、有識者、京都市職員との間で研究会を作り、六つの省庁から26名の幹部に参画いただいています。国の省庁の幹部に対して、直接京都の実情を訴えながら、国と京都市が一緒になり、京都の役割や、活用方策の研究を進めています。 平成24年9月に、京都に国の幹部職員をお招きし、京都見学会を実施し、その際には、本日の講師、大西さまにも、美術館や工房などで直接お話を伺いました。 京都創生の主な取組成果ですが、これまでの国への働き掛けなどをとおして、提案、要望の一部は既に実を結んでいます。 まず、景観分野ですが、京都の先進的な取組がきっかけになり、「景観法」、「歴史まちづくり法」といったものが作られました。そして、この法律に基づいて指定された京町家、歌舞練場といった重要建造物を修理する場合に、国から助成が出る制度が作られました。この制度を活用して、歴史的建造物の改修や無電柱化などを推進しています。 また、京都市では、その周辺の歴史的町並み景観の保護に対しても助成しております。現在は、上七軒通の無電柱化に取り組んでおり、今年度中の完成を目指しているところです。 次に文化分野での成果です。まず、二条城についてですが、京都市では国の補助制度を活用し、二の丸御殿、本丸御殿などの本格修理に向けた調査工事、障壁画の保存修理を進めています。しかし、本格修理となると多額の費用が必要になってきますので、二条城一口城主募金へのご協力も広くお願いしているところです。 文化財とその周辺を守る防災水利整備事業についてですが、これに対して国が新たな補助制度を作りました。その補助制度を活用し、清水寺やその周辺の文化財、地域を火災から守るために、高台寺公園の地下と、清水寺の境内の2カ所に25メートルプールであれば五つ分に相当する耐震型の防火水槽を整備すると同時に、法観寺の境内には、文化財に燃え広がらないようにするための放水システムを整備しました。これは全国でも初めてといわれています。 文化庁の関西分室の設置・拡充についてですが、京都市をはじめ、文化的資産が数多く存在する関西に文化庁の機能の一部を設けてもらうよう、これまで国に訴えてきた結果、京都国立博物館の中に文化庁の関西分室が設置されていました。しかし、昨年度で設置期限が切れてしまうことになったため、分室の機能を拡充したうえで引き続き分室を残してもらうように要望をおこないました。その結果、今年度からは機能を拡充し、事務所を京都府庁の旧本館に移転したうえで、再スタートしていただいております。そして、京都市が持つ、京都芸術センターで具体的な仕事を展開していこうという話が進んでいます。 「古典の日に関する法律」の制定についてですが、これは皆さまご存じのとおり、11月1日を古典の日と定めて古典に親しんでいこうというものです。法律の制定に向けては、京都の強い働き掛けにより、国会議員の有志の方に議員連盟を作っていただきました。そして、その議員連盟に法案を提出し、成立させていただきました。 観光分野の成果です。観光庁と京都市との共同プロジェクトにより、平成23年1月から、国と京都市が連携して外国人観光客の誘致や、受け入れ環境の充実などに取り組んでいます。 これは、京都を世界トップ水準の外国人観光客の受け入れ体制に整えることで、全国のモデルとしていこうというものです。この共同プロジェクトを最大限に活用しながら、国が目指す観光立国の実現に向けて、京都が積極的に貢献していきたいと考えています。 この他にもまだまだ成果はあります。例えば、京町家再生に対して、海外から支援をいただいています。これは、京都創生を海外に発信するプロジェクトの一環として平成20年にニューヨークでシンポジウムを開催したことがきっかけになったものです。アメリカにあるワールド・モニュメント財団から、京町家を改修して活用する二つのプロジェクトに対し、多額の支援をいただくことができました。 京都創生の取組の意義ですが、この取組により、国で新しい制度が作られたり、制度が見直されたりしています。それにより、京都の歴史的景観の保全再生であるとか、文化財の保存、継承の取組に対して大きな成果をもたらしていることが挙げられます。また、全国で進められている歴史・文化を生かしたまちづくりを、京都がけん引する役割も果たしているといえると考えています。さらには、国が目指している観光立国日本にも大きく貢献しています。ここに、京都創生の取組の大きな意味があると考えています。 京都創生の取組は、ただ国に求めるだけではありません。地元京都でも、市民の皆様や企業、団体、そして京都市がみんなで手を携えて、オール京都で進めていかなければなりません。 そのため、この京都創生推進フォーラムを中心に、本日のセミナーなどの機会を活用して、京都創生の取組を周知し、また市民の皆様の自主的な活動を支援しながら、京都創生を推進していこうという機運を高めるように務めているところです。 また、平成24年2月には、首都圏で京都創生をPRする「京あるきin東京」というイベントを開催しました。これは、京都ゆかりの企業、団体、大学の皆様にご参画いただき、2週間にわたって東京のさまざまな場所で京都の魅力を集中的に発信する取組です。 この取組では、京都市などの主催事業だけでも約16万人もの方に参加していただきました。また、首都圏において大きくマスコミにも取り上げていただきました。オープニングでは、女優の名取裕子さんと、華道未生流笹岡家元の笹岡隆甫さんに、門川市長と対談していただきました。 平成25年2月にも同様に、「京あるきin東京」を開催する予定ですので、首都圏にお知り合いの方がいらっしゃいましたら、ぜひイベントをご紹介していただければと思います。 京都創生の実現に向けては、新たな取組にも挑戦しております。国が作った総合特区制度を活用し、京都が抱える課題の解決のために国の規制の特例措置、税であるとか財政の支援措置を設けてもらえるように協議を進めています。この特区は、京都の観光の質をさらに高めていこうというものです。京都市では、5000万人感動都市というキャッチフレーズを掲げ、来た方みんなに感動していただける観光都市を目指すために、提案内容には、これまで京都創生において国に訴えてきた京町家の相続税の問題、無電柱化の問題をはじめ、京都創生に関わるものを数多く含めています。これは、京都創生の推進のための総合特区と言えるのではないかと思います。 国との協議では、国の方から厳しい指摘を受けています。特例措置の実現のために、高いハードルを一つ一つ越えていかなければなりませんが、この総合特区の取組も、さらに積極的に進めていきたいと考えています。 最後になりますが、今後も京都が持つ強みを最大限に生かしていきながら、魅力をさらに高めていくことにより、「日本に京都があってよかった。」「世界に京都があってよかった。」と実感していただけるように、京都創生の取組をさらに進めてまいりたいと考えております。 皆さま方の一層のご支援と、ご理解、ご協力をお願い申し上げまして、京都創生の取組報告とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。 |
講 演 |
『茶の湯釜の歴史と鑑賞 −瀟洒の美、朽ちの美−』 | |
多彩な茶の湯釜 私は釜を作っていますが、京都の文化、日本文化の力になれればと思っています。今日は釜を4点持ってきました。 一つ目は、500〜600年ほど前に福岡県の芦屋で作られた芦屋釜で「山ニ鹿帆掛舟地文真形釜」です[写真1]。現在のように主客同座で点前をしてお茶を点てるのではなく、別室にある釜で湯を沸かしてお茶を点て、座敷に運び込んで茶を飲んでいた時代に主に使われていた釜です。 二つ目は、私が住まいしています三条釜座で活躍していた釜師で、織田信長や武野紹鴎の御用釜師であった西村道仁(にしむらどうにん)の「蓮ノ釜(はすのかま)」です[写真2]。力強い釜を作っています。この時代は、村田珠光・武野紹鴎・千利休らの茶人が、茶室で茶をたてる形式を成立させていくのですが、その頃の炉は現在の寸法ではなく、大炉が混在していました。そのため、その時代に使われていたこの二つの釜は結構大きいのです。 三つ目は千利休の御用釜師、辻与次郎の「大阿弥陀堂釜(おおあみだどうがま)」です[写真3]。この人も釜座で活躍した釜師でした。この釜は先の二つと比較すると、意図的に肌が付けられています。今回は演題に「瀟洒(しょうしゃ)」という表現を使用していますが、この釜はそういった装飾を取り除いて、全体を肌で表現しています。鉄は磨けば銀色に光りますが、時代がたつと錆びて朽ちていきます。そうすると、自然と肌ができてきます。二条城などの門に鉄の門金具があったりしますと、雨風が当たって自然と風化して肌が付いてきますが、鉄はそのように朽ちる性格を持っています。この釜は、千利休が辻与次郎に「肌をかつかつと荒らせ」と指導して生まれた釜です。物が朽ちているところを、400年以上前に意図的に表現する事で楽しんでいたのです。 四つ目は、大西家歴代で一番技術が高いといわれている二代浄清の「鶴ノ釜(つるのかま)」です[写真4]。鶴の形をしています。鶴丸という意匠があり、それを釜に取り込んだ作品です。大西家の初代と二代は、主に武将茶人の釜を作っています。古田織部・織田有楽・小堀遠州らの大名茶人との交流がありました。当初から侘び茶に向く釜だけを作っていたのではないのです。浄清は技術が高く、また交友関係も広かったようです。『逢源斎書』という表千家に伝わる書物にこのような逸話がのこっています。千宗旦の息子・江岑(表千家四代)は、かつて織田有楽が所持し、当時は狩野探幽が所持していた"四方口の釜"を見たいと、釜屋五郎左衛門(浄清)に頼んで探幽から借り出します。浄清はこの釜の写しを作り、もとの釜と新しく作った釜を江岑のもとへ持参したが、その釜はもとの釜に非常によく似たできであった。江岑はそれを父・宗旦に進上し、宗旦は亡くなるまでその釜で茶の湯をした。といった内容です。ここにみる浄清が作った"四方口の釜"が、現在記録に残る大西家が最初に作った千家の釜です。その後、六代浄元の時代になると千家に頻繁に出入りするようになり、「利休形」などとして伝わる伝統の形を多く作らせてもらうようになり、現在に至っています。 朽ちの美を探求 スクリーンの映像を見ていただきながら、お話を進めていきたいと思います。(スクリーンに映った映像を見ながら) 私が二十数年前に作った「梅竹地文真ノ釜」の釜が映っています[写真5]。よく見ていただくと、彫刻が施されています。釜は鉄でできています。鋳造という技術でできている鋳物です。釜の表面の絵には、いろいろな表現方法があります。ここに梅の花びらの輪郭、もしくは花びら全体を膨らませるような表現が映っています。これは、500〜600年前に作られた芦屋釜を模した形状の釜に、文様を新たにデザインしています。 全体が茶色いのは、化粧を施しているからです。鉄は磨けば銀色です。鉄を流し込んで出来上がったときにも銀色をしていますが、それを再度焼くと、表面に酸化皮膜が付きます。そして、ちょっと青っぽいグレーになります。その上に漆を焼き付けて、その上にまた錆や色の土などを焼き付けていき、時代が経ったような風合いにしているのです。この釜は口元が荒れていますが、ものが錆びて朽ちていくような「荒らし」という意図的な表現を加えているのです。 いま映っているのは父・浄心の作った作品「東山魁夷下絵 松地文真形釜 唐銅朝鮮風炉添」で、銘を「巌松」といいます[写真6]。父は日本画家の東山魁夷さんと交流がありました。魁夷さんはもう亡くなられましたが、唐招提寺に襖絵を奉納されたときに、お茶道具も作ろうということになり、浄心が釜を作りました。魁夷さんが描くのは淡い色合いの作品なのですが、釜にはその淡い色は表現できないため、釜に向いた下絵として松の墨絵を頂戴して釜が作られました[写真7]。この釜は真形釜(しんなりがま)といい、羽(は)があります[写真8]。この釜の下に風炉(ふろ)という、灰と炭火を入れたコンロを置き、その上に釜を据えて湯を沸かします。ここに羽があることを覚えておいてください。 作り手により彫刻の仕方は違ってきます。釜の形というのは、お茶の道具のなかでも、一番種類が多いかもしれません。今スクリーンに映っている釜は、千家伝来の万代屋(もずや)形の釜で「笹地文万代屋釜」です[写真9]。この釜には笹の絵がありますが、日本画家の竹内栖鳳との合作の釜です。作者は私のおじいさんにあたる浄中です。昭和15年に作られた釜です。ここに割れたような破面がありますが、これを羽落(はおち)と言います。先ほど真形釜には羽があると言いましたが、それを金槌でパンパンと割っていくと、こういった破面ができるのです。それによって釜全体に力強い表現が加わります。 このように釜全体に肌があるところや、朽ちたり壊れたりするところに釜の面白さがあります。現代美術ですと、ルーチョ=フォンタナがキャンバスをナイフで切り裂いたりする表現があるのですが、日本ではすでに400年以上前にはこういう風に、物が朽ちる表現や、わざと割った破面に面白味を感じて楽しむ文化があったのです。 釜には、いろいろな形があり、肌合いも違います。いまスクリーンに映っているのは、大正時代前期の浄長の作品で「橋本関雪下絵 天女地文丸釜」です[写真10]。さきほどの浄中は大正・昭和の時代です。釜に天女の絵があります。鋳型の表面をヘラで凹ませることによって文様を彫刻して鉄を流すと、出来上がりではこういうふうに文様が浮き出てきます。天女が手に笙(しょう)を持って飛んでいるような絵柄です。釜の形は丸釜で、蓋が付いています。蓋の素材は釜本体と同じ鉄である場合と、銅合金である場合がありますが、これは銅合金である唐銅(からかね)でできた蓋です。身近にある銅合金といえば10円玉です。それに少々亜鉛を入れますと、真鍮という黄色っぽい地金になります。それは5円玉と同じです。それに近いブロンズのようなものを唐銅と言うのですが、現在多くはその銅合金で蓋を作っています。こうして異種金属を組み合わせているところにも釜の面白さがあるのです。 ちなみにこの蓋の撮み(つまみ)は、蓮のつぼみの形をしていて、南鐐で作られています。南鐐(なんりょう)とは銀のことをいいます。撮みは蓋と同じく、素材は鉄であったり銅であったり、この撮みのように銀である場合もあり、鋳造・鍛金・彫金などジュエリーを作るような技法を使います。いま映っているのは、ねずみ色をした釜です。この色を利休鼠(りきゅうねずみ)と言うのですが、全体を藁や萱をくすべて油煙を付けて黒くしています。その上に漆を焼き付け、ねずみ色の土をまた焼き付けると、くぼんだところにねずみ色の土が入ることにより、表面の黒色が際立ちます。こうして肌合いや絵柄を分かりやすくしています。この釜は化粧が剥がれ落ちています。時間がたつと、化粧した層の下に細かい錆ができてきます。使っていくほどにさびが浮いてきて、化粧による色合いが少しずつなくなっていくのです。錆びないと時代の経過した道具の面白さが出てきません。使ってもらうことで良さが出てくるのです。 いま映っている釜は形が変わっています[写真11]。真上から見ると仮面のように見えます。二つの口があるから「二口釜(ふたくちがま)」あるいは「両口釜(りょうくちがま)」といいます。これは十一代浄寿により明治時代に作られた釜です。円の半分を口としており、もう一つは丸の口で、二つの口を合わせて日月を表しています。中には仕切りがあります。京都には色々な名水がありますが、釜に仕切りがあることにより、名水を二種類沸かしてそれぞれにお茶を点て、どちらがおいしいかを楽しんでいたのです。この他の使い方が伝わっています。月の口の方でお湯を沸かしてお茶を飲んだ後、日の口の方に徳利を入れてお酒を燗にして飲む。あるいは、月の方には落とし(簀の子のような金属製の敷板)が付属しているのですが、水の量を減らして蒸しまんじゅう、例えば薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)などを入れてふかして食べる。つまり、月の方でお菓子を温め、その後、日の方のお湯でお茶をたてて飲むのです。二口釜を見かけることは近頃少ないですが、江戸期に結構作られていたようです。 次に映っているのは、青海波(せいがいは)の釜です[写真12]。通常の青海波は、同じ波の形がずっと並べられているのですが、これは大波小波と、波の畝が一周巡っています。この絵柄に特徴があることから、釜にも「青海波釜」という名前が付いています。釜の名前も、形によって付けられているものが多くあります。これは、胴で締まっているから、胴締めという言い方もします。またこの形は、例えば御所車とか、京都ですと祇園祭の鉾の車輪の中央の車軸が飛び出したところの形に似ているので、車軸釜といわれたりもします。 耳の部分にも特殊なものが付いています。90度傾けて見ていただいたら、冠の形です。耳の部分、鐶付(かんつき)にもいろいろな意匠が使われているのです。だから、釜には全体の形、肌合い、絵柄の浮き彫り、鐶付や蓋の撮み部分の彫刻ような見どころが多くあるのです。文字が釜肌に鋳込まれたようなものもあります。耳の部分は根付け彫刻のようなものなど、いろいろな意匠が使われています。そして異種の金属を使った蓋がのっています。ここにも彫刻があります。ここに映っているのは、銅の板をたたく槌金(ついき)という打ち出しの技法でつくられた蓋です。所々に金の鍍金(メッキ)も施されています。その上に座というものが付いています。これは木瓜形です。撮みは巴(ともえ)の透かし文様です。座や撮みには家紋などにみる意匠が多く使われています。 細部の仕事で際立たせる 茶室に入ると、目が慣れないと最初は暗く、障子紙を通した光で見てみると、釜全体がぼうっと暗く見えます。それで最初に釜の形を感じ、だんだん目が慣れてくると細部に目が行きます。そうすると、絵柄はあるのか、耳の部分は何の形をしているか、蓋はどういうものでできているのかなどが見えてくるのです。 次は、六代浄元の「亀甲釜(きっこうがま)」です[写真13]。六代浄元は、大変数多くこの形の釜を作っています。また、芦屋釜の写し、つまり復元もしています。大西家歴代の中でも技術の高い釜師であったのです。これを作るには、亀甲文様を彫り込んだ判を鋳型の表面に押すだけなのだから簡単だと思われがちですが、実際に作ってみると、柔らかいところに押し、さらにそれをきれいに並べることは、なかなか難しいことが分かります。 つぎの釜です。二代浄清作の「霰不二釜(あられふじがま)」といいます。[写真14]。先ほどのものは周りに亀甲の文があったのですが、この釜にはぶつぶつと粒があり、これを霰(あられ)と言います。亀甲文様ですと大きい判を鋳型の表面に押して並べていきますが、これは釘状のヘラで一つずつ粒を押していきます。そうすると、このような霰という表現になります。 大西家は、初代と二代は主に武将茶人や大名家の釜とかを作っていたのですが、こちらの釜には、口元に三ッ巴の文様があります。さきほどの釜の亀甲の文は大変きれいに出ていましたが、こちらはちょっと崩れています。実はわざと崩しているのです。釜全体の表現として、羽にも肌を入れて自然に朽ちたように表現しているのです。 私もこの釜の復元を試みたことがあります。過去の名作の写しを作るときには欲が出て、この霰より細かくしたらもっと落ち着いた感じの釜ができないか、鐶付をもうちょっと上に付けた方が良いのではないか、彫刻も奇麗に出した方がいいのではないかなどと思うのですが、実際に作って出来上がったものを横に並べてみると、自分の作ったものがなんと面白くないことか。元の釜の方がやはり面白いのです。そういうことは、作ってみて初めて分かるのです。鐶付の位置も、その場所にあるから面白いのです。 いま映っているのは、初代浄林の「霰乙御前釜(あられおとごぜかま)」です[写真15]。口は姥口(うばぐち)と言います。歯が抜けてすぼんだ口を見立てて姥口と言うのですが、尻張(しりはり)とか撫肩(なでがた)とか、釜にはいろいろな体の名称が付いています。 この釜の霰粒をよく見ていただくと、歪んでいるのがわかるかと思います。霰を打つのはたいへん難しい作業です。霰を一生懸命きれいに打ったものの、鉄がうまく流れずに、粒がちゃんと出ない場合もあります。過去にこんな経験もしました。霰釜の注文をいただいたのですが、その頃は未熟で、出来上がった釜の霰が思うように揃っておらず、茶会に間に合わないと施主から怒られながらも「もう一度作り直したいのでとりあえずはこの釜を使ってください」とお願いし、その釜を一旦納めました。それから1年ぐらいかけて納得のいく釜を作り直して持っていき、以前納めたものと二つ並べて見てみると「最初の方が面白い」と。これは使い手の好みにもよりますが、必ずしも均等に揃った霰が奇麗で面白いわけではないのです。多少の歪みがあったりと、手作りの部分が感じられるところも面白さの一つなのです。 いま映っているのは初代浄林の「糸目撫肩釜(いとめなでがたがま)」です[写真16]。釜の肌に筋(糸目)が見えていますが、木型に刻みを入れ、それを回転させるとこのような筋を出すことができます。鐶付は鯰の形になっています。蓋の撮みは瓢箪(ひょうたん)が逆さまに付いています。瓢箪鯰という意匠は大津絵などにありますが、意味はこうです。川で鯰がはねています。鯰は地震を起こすとか、ものを動かすという力の象徴になるのですが、鯰はぬるっとしています。それを瓢箪のように、つるっとしたもので押さえ付けられるか、そういう禅問答があります。こういった禅的な要素を意匠に盛り込むこともあります。 いま映っているのは、辻与次郎が作った釜ですが、「大阿弥陀堂釜(おおあみだどうがま)」といいます[写真3]。この肌は石目肌とか縮緬肌(ちりめんはだ)と言われますが、大変自然な感じを受ける釜です。私は釜を作るとき、このような石目の肌を手本にして作りたいと考えています。くぼんだりえぐれたようなところがあるのですが、千利休はこのように肌を「かつかつと荒らせ」と釜師・辻与次郎に指導したといわれています。このくぼんでいるところは、鋳型に土を付けてつくっており、作り手から見ると、すごく技巧的な表現です。自然に見える肌合いも、鋳型の制作段階ではものすごく技巧的に作られているのです。 次はその与次郎が作った霰釜で、「霰覆垂釜(あられおだれがま)」といいます[写真17]。霰が乱れているように見えますが、そんなことはありません。これは技術を持ったうえでの狙いなのです。これよりもっとばらばらに押していけば霰とは呼ばずに、霙(みぞれ)と呼びます。この釜はものすごく朽ちた感じに見えます。なぜかと言うと、釜を炭火の中で真っ赤に焼くことを長時間繰り返すと、鉄が酸化し、鉄の組成がどんどんなくなっていきます。表面に酸化した鉄の層、皮膜が付くのです。それを使っていくうちに、釜の表面がぼろぼろと剥がれ落ちていき、時代が経過した風合いになっていくのです。こういった「焼き抜き」の技法も400年以上前に行われていたのです。 先ほど羽落は金槌で割ると言いましたが、このように垂れているのは、覆垂釜と言います。これも金槌で割ることで作ります。よく観察すると、鋳型の段階でこういうものを作っていることが分かります。通常、湯を沸かしていると、底が熱疲労を起こして傷んできます。釜は大変堅い鉄でできていますから切断できません。ですので金槌で底を割って傷んだ底の部分を取り外し、新たに底だけを作って合体させます。ただし鉄はくっつきませんので、漆と鉄粉を混ぜ合わせたものが接着剤となります。それでくっつけ合わせるのですが、割った破面が面白いので、そこに一回り小さな底をくっつけることにより、覆垂という形の釜を作るのです。 現在の栃木県でも釜が作られていました。いま映っているのは天明釜(てんみょうがま)で「梅巴地文覆垂釜」です[写真18]。これも覆垂釜です。天明釜も肌のある釜と言われています。蜜柑肌(みかんはだ)などと言われますが、この釜は肌に絵が残っています。こういう絵柄のある釜の表面が錆びて一層めくれると絵柄がなくなり、こういう肌になります。それを意図して、400年以上前に肌のある釜を作っていたのです。天明釜の肌には、もともと絵柄のあったものが朽ちてできた肌もあるし、意図的に肌を打って作っているのもあります。先ほどの覆垂釜と比べてみると、金槌でパーンと割ったのがよくわかります。 釜は湯を沸かすための道具であるのに、なぜこれだけいろいろな形や意匠があるのか不思議で興味深いですが、武将は自らが身につける甲冑も自己顕示欲の強いものを使っていましたので、それを考えていただくと、彼らが戦でお茶を一服飲むのにこういった釜が使われたということが理解してもらえると思います。釜には、施主の意向が大いに反映されているということです。 釜作りの奥深い魅力 釜作りの話に移ります。茶室の土壁は左官屋さんが鏝(こて)でならしますが、私どもの仕事は木型を鏝のようにして釜の鋳型を作ります。鋳型に使う土の材質は土壁に近く、砂と粘土と水と焼けた土を混ぜ合わせ、泥状にして作ります。釜を作る前には紙型と木型と土の鋳型を作ります。鋳型を作るための木型は片木板(へぎいた)で作ります。千家十職の中村宗哲さんが棗(なつめ)を作るときも、片木板で木型を作って棗の全体の形、底の形が測れるようにしています。雲形定規みたいなものを作って木型を作ります。鉄を溶解して釜を作るまでには、紙から木から土から、いろいろな素材と技法が使われているのです。昔の木型をいまでも使っていますが、磨滅してだんだん傷んできます。そのため、欠損がないようにジュラルミン(アルミ合金)でも作ってみましたが、ジュラルミンでも磨滅します。だから紙で図面を残し、作り直すことを繰り返していくのです。 鉄の熔解ですが、昔は木炭を使用して鉄を溶解していましたが、私の代からは電気炉も使います。筒状の甑炉に、サンドイッチ状に炭・鉄・炭・鉄と詰め込んで、鞴(ふいご)で風を送ると、鉄が溶けて底にたまります。底に穴を開けるために、杭をコンコンと打ち込み、杭を抜いて溶けた鉄が飛び出たところを杓で受け、それを鋳型に流し込む鋳造の工程を「吹き」と呼びます[写真19]。 芦屋釜などがよく割れるのは、厚い部分、薄い部分があり、組織がいびつだからです。それを、400年以上前に京都で釜が作られるようになってから、一度釜を真っ赤に焼く「焼き抜き」という熱処理を行うようになりました。それにより釜の組織が均一になり、割れにくくなったのです。 それと、鉄を少しさびにくくするために、鉄を溶解する段階で、私は微量な金属を足してやります。耐熱性・耐食性を持たせるために微量な金属を入れるとなると、今度は溶解方法を変えなければなりません。木炭で溶解したのでは溶けなくなります。それで、いまは一旦1600℃まで炉の温度を上げて鉄を溶かして、そこから温度を下げていって、1450〜1500℃ぐらいの鉄を鋳型に流し込んでいるのです。木炭で溶かす場合は、1280〜1350℃よりもう少し上がっていると思います。 こうした温度を上げるなどの工夫をすることにより、父親がしていた時代は50%ぐらいの確率で鉄がうまく流れなかったものが、現在は成功率を80〜90%までに上げることができるようになってきました。昔からの技術を習得しつつ、このようにして現代の技術を応用していくことの両面が必要だと私は考えています。 また、これだけ高温の鉄を流し込むのに耐えうる強度をどのように鋳型に持たせるかというと、粗い土から細かい土まで層を5つに分けて鋳型を作っています[写真20]。最初は目の粗い1分のふるいで漉した土と、砂・粘土・籾殻などの繊維を混ぜ合わせた泥状のものを鋳型の枠の中に盛り、木型を回転させて大まかな型をつくり、一度素焼きをします。そしてその表面少し削り、次は5厘のふるいで漉した土で同じことをして、また素焼きをします。その後に3厘のふるいで漉した土で型を挽き、最後に水が引くところを見計らって、最もきめの細かいクリーム状の泥をまきながら木型を回転させる「挽き上げ」の作業を行います。これにより、木型に沿った釜全体の形がようやくできるのです。 肌のある釜は、ここに砂粒と泥を混ぜたものをたんぽで打ち付けて肌を作ります[写真21]。肌のある釜というのは、完成した鋳型にもう一工夫、荒らしてやることをしなければいけないのです。文様を入れる場合は、薄い和紙に描いた下絵を貼り付けてヘラで押していきますし、霰などは、釘のようなへらで一粒ずつ押していくのです[写真22]。 初めて霰の粒を打ったときは試行錯誤でした。先代である父親は早く病気で寝込んでしまったので、教えてもらえなかったのです。霰を鋳型の上(釜の胴の部分)の方から押すのか下(釜の口の部分)の方から押すのかが分からなかったのですが、試した結果としては下から押さないとできないことがわかりました。 外型が完成すると、次に中型(=中子)を作らなくてはいけません。昔、泥団子を作ったことがある人は分かると思いますが、土を湿らせてこねたものを、完成した外型の中に込めるのです。それを炭火で熱して乾燥させたあとに引き抜くと、釜の形状をした土の塊が出来上がります。その表面を釜の厚み分だけ削って、もういっぺん鋳型に収めると隙間ができ、それが釜の厚みになるわけです。これは大西に伝わる「込め中子」の技法です[写真23]。 いま映っているのは、500〜600年前に作られた芦屋釜で使われていた「挽き中子」の技法です。私一人で再現に成功できたわけではありません。京都に泰蔵六さんという蝋型鋳物(ろうがたいもの)の家がありまして、先代さんに「蝋型鋳物の技法を教えてほしい、その技法にヒントがあると思うので」とお願いして教えてもらい、自分で改良してこういう技法を再現することができました。学生のころ考古学が好きで、遺跡で発掘された色々な鋳型を見ていました。鋳型には藁の繊維が入っていたり、髪の毛が入っていたり、籾殻が入っていたりしていました。泰蔵六さんのところのものも籾殻が入っていました。それを参考に自分で調合したらできたのです。父親がこの挽き中子の技術をやりたいと言いながらできずじまいだったのですが、私は幸い一度でできてしまいました。人と運にめぐまれていたのです。 釜の復元をするときは、実際にやってみることが大事です。頭で考えている間はできません。手を動かすと失敗するのですが、そこに糸口を見つけてまたやり直すということを繰り返していくと、昔の技術が復元できるようになります。昔は道具もいまのようにたくさんないです時代ですから、職人さんも素朴な気持ちだったと考え、道具をシンプルなものに変えてやってみると、復元の仕事から糸口を得ることができます。それでもやはり、まず一度やってみる事が大事なのです。 さらに技術を磨く 私は大学の同級生と3人で仕事をしております。大西家は三代に一度つぶれかけると言われます。私は十六代目ですから、この代でつぶれるかもしれないと父親に言われたことがあります。父親からは家を継げとは一言も言われたことはありませんでした。今こうして代を継いでいるのは、うまくしてやられたのか、いまとなっては分かりません。幼い頃、来客があると「跡継ぎさんやね。」とよく言われたものですが、こう言われると、親からは言われなくても、継がないといけないのかなと思ってしまいます。父親からは水墨画も習字も絵も「そんなん、習わんでええ。」とずっと言われていましたが、実際は全部しないと駄目でした。小学生の中に混ざり、筆を握る手を持ってもらって習字の稽古をしたのを覚えています。昔の職人さんは、いろいろなことを若い頃からして、いい釜を作り上げていたのだと思います。 茶室の中には、紙のもの、竹のもの、土のもの、そして金ものである釜があります。作り手から言えば、自分のものが一番と言いたいところですが、茶室は一つの空間で、いろいろな素材があり、亭主の意向が反映された複合的な和の文化を鑑賞する空間なのです。茶室に入ったときは薄暗くて目が慣れないから、じっくり見てやろうという気持ちを持つことで、そこから細部まで目がいくようになります。炉の中に釜があるわけですが、どういうふうに見たら良いかというと、だんだん近づいていき、釜の形をまず感じ取ってもらい、文様や文字があるかないか、肌はどういう肌をしているかなどかを見てください。 例えば、いま映っているのは私の作った釜ですが「関字丸釜(かんじまるかま)」といいます[写真24]。鐶付は鬼面(きめん)、蓋は鎚起。六角形の亀甲の撮みがついています。遠目にもう一度見て、好きなところを見ていきます。肌だったら、こんな肌をしているとか。できましたら、これから釜を見る機会があれば、じっくりと肌を見ていただきたいです。釜によって全然肌合いが違います。最後にもう一度、全体の釜の形を見てもらう。外国の方が美術館に来られますが、釜は造形的にはどう思うかと聞くと、面白いと言ってくださいます。なんとかこれを海外で紹介できるような機会を作りたいと考えています。 施主によってはこんな注文もあります。500年ぐらい経ったような感じの霰釜を作るように言われました。そういう風合いを出すには、霰をきれいに打ってから、その霰をつぶしていきます。次にはその中に松の文様を入れるようにと。そして私の方からもわがままを少し聞いてもらいます。漆器には葦手絵という隠し文字の入った作品がありますが、釜にはまだありませんでした。施主の注文は「揺月(ようげつ)」という文字を釜の肌に鋳込むようにとの依頼だったのですが、それを葦手絵みたいに木の中に隠したいと私はお願いしました[写真25]。そういうふうに、今までにないこともやらせてもらうことで新しい技術が増えていくのです。私は、釜以外のものでもいろいろなことを試すようにしておりますが、いろいろなことを試してみると、何かまた後に繋がる知恵となります。 以上、私の仕事、家に伝わること、釜の鑑賞の仕方などを聞いていただきました。 |