見学:お話
司 東

 言い訳のようなことを少しお話しますと,あっけなく負けた条件というのは大きく3つあるんだと思うんです。1つは,大阪の西山本願寺はお城でした。お寺ですけれども大阪城はその西山本願寺の跡を使って造ったといいますから,西山本願寺の規模というのは今の大阪城より広かったようです。お寺の信者の人達も一緒に堀で囲んだような,本当に大規模な要塞のお城だったようです。ところが根来寺はもともとお寺なもんですから,大阪城のように堀が形成できなかった。石垣も若干はあるかもしれませんが,大阪城のような形で累々とした石垣はたぶんなかったんだと思います。一番弱かったのは,構造的にお城でなかったということがあるんだろうと思います。

 それから2つ目は,70万石とは言っても,根来寺の70万石というのは中世の荘園形式のようにポツ,ポツと領地があったわけです。一面支配の和歌山県一帯とか全面支配をしてその辺一帯を支配していたのではなくて,あちこちに荘園があって,その荘園を集めて70万石ということだったんです。江戸時代の大名は時には平面で支配を及ぼしていくわけですが,中世の荘園の残存形態ですから,本当の意味での,戦国大名のような意味での70万石分の僧兵軍団というのは無かったんだと思います。あと,平面で支配しているわけじゃないから,そこの土地に対する執着心は弱かったんだろうと思われます。そういう意識とか構成が大きな2つ目の理由なんだろうと思います。

 それから,3つ目。一向宗というのは阿弥陀様,浄土信仰で,皆さんも御承知のように死ねば来世で阿弥陀様が,極楽浄土に往生できて幸せな生活があるという信仰なんですね。死ぬのが怖くなかったんだと思います。命を懸けても戦っていくという気持ちが強かったんだと思います。ところが私達の真言宗は,来世を主とした仏教信仰ではなくて現世が中心です。即身成仏という言葉を聞いたことがあると思いますが,真言宗の浄土の中心は現世です。ですから「死んであの世」ではなくて,「この世に浄土を形成していこう」というような宗派ですから,一向宗の方々のように「命を捨てても」という意識が弱かったのかなと思います。

 そういう大きな3つの理由があり,たった2日で敗れてしまいまして,その夜から根来寺は3日3晩燃え続けたと伝えられています。それは当時の宣教師の方の日本史であるとか,様々な歴史書にも書かれていますので誇張ではないと思います。それで,根来寺の内でも学問をする方のお寺であった智積院は,戦いの前に高野山の方に逃げておりました。ただ,高野山の方でも長くは匿ってもらえなくて,智積院は京都の神護寺の方に仮住まいをしたり,北野に仮住まいをしたりして大変苦しい時代を送って参りました。しかし,幸いにも秀吉の時代が終わるわけです。秀吉ファンの方には申し訳ないのですけれども,秀吉が死んで時代が変わっていく。先にも言いましたように根来寺は家康と組んでおりましたので,家康が今度は根来寺の生き残りの智積院にも目をかけてくれるようになりまして,京都のこの地を智積院として再興され,許され土地をいただいてこの場所にお寺を再興しました。それが,この場所に智積院ができた歴史になります。

 関が原の合戦の後すぐにこの土地をもらいましたけれども,関が原の合戦の後,今度は大阪冬の陣,夏の陣というのがありまして,いよいよ秀吉の子供の第2子であります秀頼も淀君と共に大阪城が落城して豊臣政権が完全に終わった時に,ここの祥雲禅寺のお寺のほとんどすべて,それから少し下がるとお隣の妙法院さんの土地,北の方をいただくことになって,この智積院が今の形になって揃とくるということになります。

 明治維新の時代になりますが,この智積院は土佐藩の宿坊となりまして,その時火薬が爆発して智積院の建物の多くが延焼してしまいました。それから明治維新政府というのは貧乏な政府でしたし,江戸時代を通じて江戸幕府の権力機構を形成していた仏教に対して非常に反感を持っておりましたから,廃仏毀釈という政策ですとか,それから上地令やら色々ありました。一言で言いますと仏教寺院に対して非常に高い税金をかけた。その高い税金を現金で納めることができれば,江戸時代を通じて持ってきた土地を認めるけれども,税金を納めることができなければ,それに見合った土地を上知しなさい。土地を召し上げるということです。その後,今の宗務庁があるところに京都芸術大学がちょっと前までありました。梅原猛先生は,京都芸術大学の学長だった。梅原先生は空海や真言密教に大変お詳しく,その梅原先生がここの智積院の今の宮坂宥勝能化と学問を通じて個人的なお付き合いもあったようで,智積院のことを大事に思っておられた。その時,梅原先生が,京都芸大の土地というのは江戸時代,上知令までは智積院の土地だったことを覚えていてくださいまして,実は京都芸大が郊外に移るので,智積院さんどうですか,ということで先に声をかけてくださいました。

 そういうことから,智積院は根来の土地から今日まで脈々と続いてきている寺院で,今,様々な催しをやっています。京都市役所の方々は京都の創生活動をやっているんですけれども,私どもも智積院の創生活動を行っておりまして,様々な事業をたくさんやっています。伝統的な事業で素晴らしいのもたくさんありますけれど,一番有名なのは6月15日の青葉祭り,柴灯大護摩供ですね。洛北,詩仙堂の方に狸谷さんというのがありますが,ここでも柴灯護摩をやります。それから12月10日〜12日に冬報恩講というのがございます。こちらは根来寺以来の伝統の行事で,声明で3日間御奉仕,お勤めします。それから2月15日にかけておよそ1ヶ月間かけて常楽会という法要があります。この法要は金田一京助先生の息子さんの金田一春彦先生が,日本の伝統の声明,日本の古典的な発音と言いましょうか,発声というのが非常に素晴らしいという折り紙もいただいた常楽会という声明がございます。それから,ついこの間終わってしまいましたが,8月31日に御供養法要があります。これは光明真言三昧です。春は夜の桜供養。6・7月はほたる鑑賞の会。8月には鈴虫を聴きながら寄席を聴く会。それから,秋は観月会。一番有名なのは大覚寺の池で行われるものでしょうけれども,昨年から観月会を始めて,皆さんの手元にも今年の10月6日のパンフレットがあるかと思いますけれども,非常に素晴らしい催しとなっております。何が素晴らしいかと申しますと,只管の声明というのがございます。これは天台声明などとは種類が異なるんですけれども,非常にさわやかな,力強い中にも奥ゆかしい声明が聞けます。桜供養でも,その他,御詠歌,写経の会も月に1回,21日に行っています。最後に皆さんにぜひお勧めしておきたいのは,京都十三仏霊場巡りをやります。一般には,奈良の仏像,京都の建物,と言われますが,決してそうじゃなくて京都にも素晴らしい仏像がありますね。その仏像を巡って歩く旅が「京都十三仏霊場巡り」。その第1番が智積院でございます。ここにいらっしゃる皆さんはきっと関心がおありでしょうから,ぜひ御参加いただきたいと存じます。

 この後,国宝の長谷川等伯の障壁画を御覧なっていただきますけれども,その中でもここの障壁画は秀吉が徳川家康を圧迫するために描いた障壁画が多いんですね。どういうことかと申しますと,徳川は葵が紋章なんですけれど,秀吉が自分を松になぞらえて,松が葵を圧迫しているような図柄が2つございます。智積院の良さを庭園や障壁画を鑑賞していただく中で,あるいは色々な行事に御参加いただいて再認識していただければと存じます。また,それらを通じて京都というのは本当に素晴らしい場所だと,京都にお住まいの皆さんが再認識していただいて,日本の京都ではなくて,世界に誇る京都だ,と誇りをもっていただければな,ということで,今日のお話とさせていただきたいと思います。最後まで御清聴ありがとうございました。

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