第2部 | |||
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司会 | ありがとうございました。ただ今の踊りは、本年10月9日に開催された「京都学生祭典」の実行委員会の皆様による「京炎そでふれ」でした。今一度、拍手をお願い致します。 それではここで、御祝電の御披露をさせていただきたいと思います。
以上、御披露させていただきました。 (拍手)
それでは、ただ今から第2部のパネルディスカッションを開始致します。 コーディネーターの吉澤健吉京都新聞社編集局次長 それでは吉澤さん、よろしくお願い致します。 | ||
パネルディスカッション | |||
吉澤 |
皆さんこんにちは。第1部が大分ずれ込んで参りまして、途中にトイレ休憩を挟むとほとんどいなくなっちゃうんじゃないかなと今パネリストの先生方と心配していたんですが、ほとんど皆さんお残りいただきまして、本当にありがとうございました。 今日は現代の町衆の皆さんにお集まりいただいて、それぞれの皆さんの活動を御報告いただいて、京都創生に役立てたいというのがこのフォーラムの趣旨でございます。主催者のリクエストで前半はちょっと堅くいきますが後半はリラックスしていってくださいということで、今学生諸君による強烈な踊りがございまして、ちょっとお年を召した方なんかは心臓に悪かったんじゃないかなという気も致しますが、リラックスして後半はいきたいと思っておりますので、よろしくお願い致します。 それでは、4人のパネリストの先生方でございます。先ほど司会者から御紹介がございましたので、早速先生方の自らの活動と京都創生の重要性についてのお話をお伺いしたいと思います。誠に申し分けないんですが、時間が押しておりますので、大体お一人7分から10分ぐらいということで、御発言いただきたいと思います。 最初はお能の片山先生にお願いしたいと思います。片山先生は皆さん御承知の人間国宝片山九郎右衛門さんの弟さんでいらっしゃいまして、今能の若い世代への継承に一生懸命になっておられるんですが、現代生活がほとんど洋風化した中で、能のような伝統芸能をどうやって伝えていくのかというあたりのお話を伺えればと思います。 | ||
片山 |
7分ぐらいで能の伝承についてというようなお話しをせえということですけど、とてもそんな時間で収まるような小さな題ではないので困っているんです。 先ほど来、京都は非常に文化都市で、文化都市というのは最近のことですけど、文化の町でずっと来たことは確かでございます。その中で、能も室町時代に基盤ができたのは確かに京都。皆さんもよく御存じのように、今は西陣小学校と言うていると思いますけれども、前の桃薗。そこに観世稲荷という祠が一つ残っておりますが、そこに観世屋敷というのがありました。つまり幕府ができる以前は確かにこっちに、その頃は流儀とは言わないで座と言いましたんですけど、観世座とか、ほかのも金剛座という具合に色々名前を座で言うてたんですけど、その時代は京都に主流がいたわけです。ところが幕府が東京へ皆を引き連れていって、つまり能という演劇も幕府の丸抱えになってしまって、式楽と申しますけれども、その頃から京都に残ったわずかな能楽師が明治までもってきたのです。その時にはどうしていたかと言いますと、主流の能は東京でやっていた。ただし京都にもそれまでの伝統がありますし、禁裏、つまり御所のほうへ出入りして、御所で能をやること。それから、こちらに下鴨の宮司さんがいらっしゃいますけど、あそこの糺ノ森の勧進能であるとか、北野の勧進能であるとか、神社関係の、あるいは仏閣関係の勧進能などはございましたんですけれども、今で言う能楽堂とか能舞台というものは京都では長い間なかった時代が江戸時代でございます。ただ、謡はずっと京都に根づいて、それで京都の町衆の方々、お商売人の方々の趣味として謡い講というのができまして、それが町衆、つまり町家の中で謡われることで、謡人口というのは非常に多い都会であったわけです。それでかろうじて能の一つの基盤である謡というものが続いてきた。能はほとんどが禁裏とか神社とか、そういう所で時々やっていた時代が江戸時代でございます。 それで今日に至ったのですけど、私たちとしましては、今は若い人に教える。というても中々これも難しいことでして、とにかく能みたいなものは実際は昔から流れている技術の底にある心みたいなもの、それを伝えなんだら伝えたことにならんのですけれども、それを伝えるためには時間が掛かる。なんぼ賢い弟子でも、それは時間を掛けて技術を磨くうちにそれが染み込んでいくということになるのです。ところが、今みたいな回転の速い世の中ではそれは逆行の現象でして、時間を掛けないで役に立つ人間をつくるわけでしょう、今は。それは能の役者を育てるのには逆さまなんです。時間を掛けてゆっくり育てて、その中で何人かが能役者になれる、そういうぐらいの辛抱がないとこういうものは成り立たへん。そういう時間と辛抱と手間、それがかかるものを逆に言うと日本人は育ててきた。それで今まで600年もってきた。だから、ごく大衆的とは申しません。決してそんなようにはいかんけれども、やはり能というものはいいものだということを分かっていただける心根みたいなものは、600年ほどもってきた日本人、皆さんの心の底のところに何かそれに響くものがあるから今日まで来たのだと思います。 今、私たちもそれが切り替えの時期というのは、皆さん一般の方々が享受されることがやっぱり減ってきているわけです。減ってきているからそれをどないしたらええやろうということで、市の方にも協力していただいて、子供たちに、小学生たちに教えることで何とか家の中へ、各御家庭の中へ能の影なり、一点なりとを持ち込んでもらおうというようなことで、夏期講座を開いたりして、囃子や謡等の体験講座を開いて、子供たちは素直に参加してくれております。それがちょっとした私らの気休めでございますけれども、何しろ生活状態も違うてきているわけで、昔なら御隠居さんは離れにおって、そこでうなっておった。うなっているというのは謡を謡っているということです。僕ら小学生の時分によう言われた、「おまえはうなり屋はんの子か」と言われたぐらいに、一般のお家の中で時々そういうお年寄りがいられた、あるいは鼓を打ってられた。今はそういう生活状態も少なくなってきていますので、勝手に減っております。しかし、この間体験講座で小学生の子供たちを呼ぶと、必ず父兄がついてきてくれはる。その父兄は今の30〜40代の御父兄です。そういう能に接するのは子供も初めてですけれど、親も初めて。それが一緒について体験の所を回ってくれるので、実際打ったり囃子たりするのは子供ですけれども、おやっさんにもお母さんにも何らかの響きが伝わって、それを家へ持って帰ってもらえるので、効果は薄いかもしれんけど、いつまでも続けなしょうがないなと思って、今頑張ってやってる最中でございます。 これからも、先ほど申しましたように時間の掛かる仕事ですけれども、私ら年寄り、また中年ぐらいの人、あるいは青年という具合に、そういう心根だけは受け継いで生かして、とにかくその次のその次の若い人に染み込ませていく。そうやないと日本の独特の芸というものは保っていけない。ちょっとでもいいから、ごく大衆的に発展さすというようなことは私は無理な話やと思います。漫才の好きな人に能を見に来いと言うてもこれは無理や。早い話がそういうことですので。しかし、歌の好きな人もあれば文学が好きな人もある、そういう方ならちょっとしたことで理解していただけるというようなことを考えながら毎日やっております。 | ||
吉澤 | 片山さん、御協力ありがとうございます。何か片山さんを見ていると、存在そのものが能で、御発言されているけど謡を聞いているような気分に横でなってきまして、さすがだなという気が致しました。 次は、杉浦さんにお願いしたいと思います。杉浦さんは祇園町南側の今の京都の歴史的景観を代表するような綺麗な町並みをつくるために尽力していらっしゃいまして、私ども男性にとっては夜の夢を与えてくれる町でもあるわけでございますが、本当にその中で非常にいろんな御苦労をされて、あの景観を保たれているとお聞きしております。 | ||
杉浦 | 我々の活動というのは準備期間も入れますと約11年ぐらいになるわけですが、それを5〜6分でしゃべれというようなことでどだい無理でございますので、ほんのさわりだけと申しますか、駆け足どころかフルスピードで走って、時間内になんとか終わらせたい、かように思っております。 さて、我々の方は準備期間を過ぎまして、約10年前に祇園町の南側、四条通より南側の地区、全部で320戸ほどでございますが、全員で何とか我々の町、ほおっておけばつぶれてしまうか、ややこしくなってしまいそうなこの町を何とか守っていこうやないかということで作りました祇園町南側地区協議会という会でございます。その後これから色んな意味で法人格が要るやないかということでその後、NPOを作りました。さて、私どもがやりましたことは、かろうじて残っております町並みと申しますか、祇園情緒といいますか、そういった独特の雰囲気のものを何とか後に残していきたい、これ以上壊したくない、そういったことで一所懸命やり出したものであります。しかし、やってみますと大変なことになって参りまして、今だに右往左往して泡を吹きながらやっているわけでございます。 結論を先に申し上げますと、町並みというのは結局その町その町の人並みの表れなのではないか。単に姿形のことではないのではないかということであります。私たちの町で古くから守られてきましたいろんな習わしとか生活習慣そのもの、あるいは生活の秩序というようなもの、そういったいろんな約束事というものの表れそのものが町並みなのではないかということであります。そういったものをそっくりこれから立て直していくためにどないしたらいいのやろうということで初めやっさもっさやっておりました。しかし、我々のやっております町の秩序というものが廃れてしまったり、あるいは約束事が守られなくなってしまいますと、祇園町が祇園町でなくなるだけやなしに、町そのものでなくなってしまうのと違うか。単に人間の集まりというだけになってしまうのやないか、そういう危機感からやりました。すなわち景観というのは町の外観だけのうわべのことではないんじゃないか。まちづくりというのはそういうことでできるものじゃないんじゃないかということから致しました。したがいまして、今まで不文律としていろんな約束事なり習わし、そういったものが伝わってきておりますが、それがいろんなことで途絶えかけております。まずそれを最初みんな集まりまして、知恵を集めまして、まず不文律であったものを整理致しまして、約束事を成文化していこう、また図面化していこうということから始まり出しました。その作業は今現在もまだ続いている最中であります。 そういったことできちっと住民の間で、全員一致で景観協定というものを結びました。また、京都市の方で条例も決めていただき、また保全計画もつくっていただきました。それからあとよそさんが家を直さはるとなると我々役員が行きまして、ああしたらいかんこうしたらいかん、要するに無料指導とか無料相談とか形はいいんですが、口出しだけ一人前にして参りました。おかげをもちまして京都市さんの補助金の制度も利用させていただきまして、今までに全部で320軒のうちの171軒が規定どおり、我々の決めました昔の規定どおり、また約束どおりにきちっと修繕ないし改修、あるいは建て直し、あるいは今の言葉で言いますと再生と言いますか創生と言いますか、していただきました。もう保全というよりも再生・創生と言ったほうが早いかも分からないというところまで参りました。よくここまでできたものだと我々自分で感心してるようなことでございます。 我々のやってきた中でいきますと、そういった形だけのことやなしに、一番最初に申し上げたように、それぞれの生活の基盤というか、生活の規則というもの、生活の秩序というものが守られなかったら町が崩れてしまうのと違うか、それも見直したらどうなんやということがまた出てきました。皆さん既に去年のことでございますので御存じと思いますが、相当長い文章になります。今ここで御披露する時間もございませんが、要するに地域の人間が生活の上で守るべきマナーといいますか、約束事、それを成文化致しました。文章化できたものを見ますと、昔江戸時代にそれぞれの町内が持っておりました町式目という町規制そのものだということで、それならいっそのこと町式目という名前にしてしまおうやないかということで、そう致しました。 次から次からいろんな仕事ができてきました。決まりごともたくさん決めて参りました。これからまだまだやっていかないかんこともたくさんあると思いますが、とにかく今まで何とか無事に参りました。初め思っているより速いスピードで町がよくなっていった、大変うれしいことだと思っております。あとはまだ仕事がございますが、こうしたことを今参加していただいている若手の後継者の方にきちっとバトンタッチをしてやっていくというようなことが残された仕事であろうかと思います。 誠に取りとめのない話を時間超過してまで長々と致しました。少しでもお役に立てばと思っております。御清聴感謝します。どうもありがとうございました。 |